サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑥

ボバニプル(1)

『ションデシュ』誌が廃刊になってから、しばらくして、なぜU. Ray & Sons も廃業することになったか、まだとても幼かったぼくに、知るすべもなかった。ある日、母さんがぼくに、この家を出て行かなくちゃならない、と告げたのだ。

ゴルパルを離れ、それと同時に北カルカッタを離れて、ぼくら二人は、ボバニプルにある母方の叔父さんの家に移った。6歳になろうという頃だ。ぼくには、大きな家から小さな家に移ることが、あるいは贅沢な暮らしから平凡な暮らしになることが、その歳頃の子供の心に、特に苦痛をもたらすとは思えない。「ああ、可哀想だ」という言葉を、小さな子供に向けて使うのは、大人たちだ。子供たちは、決して自分を「可哀想だ」とは思わない。

ボバニプルのボクル=バガン(1) の家に来て、まずびっくりしたのは、床が、磁器のかけらを埋め込んだ模様で、覆われていたことだ。こんなものを、それまで、見たことがなかった。目を丸くして見つめながら、こう思った –– 「おやおや、この床を作るために、一体いくつ、茶碗や受け皿や大皿を、割ったことだろう!」 かけらの殆どは白かったけれど、中にはそうしたかけらに混じって、あちこちの隅っこに、突然、細長い花模様とか、星とか、波打つ線とかが見えることがある。他にすることがない時は、こうした磁器のかけらを見ているだけで、時が経つのを忘れたものだ。

ゴルパルになくて、この家に来てよかったことが、もう一つある –– 道に面したベランダだ。寝室から出ると、すぐ目の前がベランダだった。朝も昼も夕方も、一日中ずっと眺めていた –– どんなにいろんな人たちが、前の道を行き来したことだろう。真昼時には、色とりどりの小物を押し車に乗せて、物売りが呼ばわりながら過ぎる: –– 

「ドイツ物だよ たったの2アナ…  日本物だよ たったの2アナ…」(2)

週に2日か3日、「ミセス・ウッドの箱」を持った物売りがやって来た。母さんや叔母さんは、ベランダから、「おおい、箱売り、こっちへ来なさい!」と呼び声をあげる。ぼくは嬉しくてわくわくする。なぜなら、夕方のおやつが豪勢なものになると、決まっているから。箱の中には、ミセス・ウッドが作った、ケーキ、ペーストリー、パテが入っていたのだ。

 

日が暮れかかる頃には、節回しをつけた物売りの声: ––

 

「メチェダの、チャナチュルは、いかが …  出来立ての、ホッカホカだよ …」(3)

その後しばらくすると、道の向かい側のチャトゥッジェ家(4) から、ハルモニアムの伴奏付きで、古典歌曲を練習する、かすれた歌声が響いてくる。

夏の昼間には、寝室の扉や窓は閉じられていたけれど、どういう訳か、窓の横型ブラインドの隙間から、光が差し込んできたのだ。その光のせいで、ある決まった時間になると、外の道の上下逆さまの絵が、窓の反対側の壁の上に、大写しで映し出された。締め切った部屋の中で、まるで魔術のように、道を行き交う人びとの姿を見ることができたのだ。その絵の中に、自動車、人力車、自転車、歩行者の様子を、何もかも、申し分なく見分けることができた。昼間、寝台に横になりながら、ぼくはいったい何度、この無料のビオスコープ映写会を見たことだろう。

ぼくらの家の表扉には、ちっちゃな穴が一つあいていた。扉を閉めてその穴の前に磨きガラスをかざした時にも、外の光景の上下逆さまの縮小版を、ガラスの上に、はっきりと見ることができた。別に目新しいことではない。これこそ写真術の第一歩で、誰でも自分の家で試してみることができる。でも、その頃のぼくはそれを知らなかったので、こんなことが起きるのを見て、とても驚いたのだった。

ぼくらが移った家の主人は、ショナ叔父さん。お母さんには、4人の兄弟と2人の姉妹がいた。一番下の叔父さんはぼくが生まれる前に亡くなった。一番上と二番目は、それぞれパートナーとラクナウ(5) の法廷弁護士だった。ショナ叔父さんは三番目。ショナ叔父さんはイギリスに行かなかったし、白人(サヘブ)風の雰囲気はまるでなかった。ぼくの義理の叔父さんの一人が保険会社の社長で、ベンガル人経営の会社の中では、すごく羽振りがよかった。ショナ叔父さんは、その保険会社に勤めていたのだ。

ショナ叔父さんは、算数がものすごく得意だった。後になって、ぼくが学校に入学した時のことだ –– ぼくの年に一度の試験の、「連分数」(6) の問題が載った紙を手にすると、一目目を通しただけで、「これの答は、8だろう?」と言ったのだ。ぼくにはそれが、まるで魔法のように思えた。

叔父さんは、ふだんは真面目くさっていたけれど、子供っぽいところもあった。叔父さんは、30歳近くになっても、まだ同年代の親戚の友達たちと、日曜の朝、大張り切りでキャラムとルードーのゲームをした。後にはバガテル(7) が流行ったけれど、それにも、最初の二つに負けないくらいの張り切りようだった。ぼくがそれを、立ったまま見ていると、時々、こんな言葉が飛んできた –– 「おい、マニク(8) 、大人たちの中にいるんじゃない!」 それでぼくは、しぶしぶその場から引き下がったけれど、叔父さんたちのやっていることが、大人にお似合いだとは、とても思えなかったのだ。

実のところ、ぼくは、殆どの時間を一人で過ごさなければならなかった。特にお昼時は。でも、だからと言って退屈を感じたことは、決してなかったと思う。‘Books of Knowledge’ 全10巻(9) のページをめくって、そこに載っている絵を見るのが、やることの一つだった。見飽きることは、決してなかった。後になって、母さんは、‘Romance of Famous Lives’ 全4巻(10) を買ってくれた。絵が満載の、外国の有名人の伝記を集めた本だった。

本の他にも、時間を過ごすのにうってつけの、びっくりするような器械があった。「ステレオスコープ(stereoscope)」という名前だった。その頃は、この器械を置いている家がたくさんあったけれど、今はもう、見ることはない。ヴィクトリア朝時代(11) の発明品だ。底に把手があり、それを持って、枠の中に嵌め込んである一対のレンズを、両眼の前に支える。レンズの前のホルダーには、写真が立ててある。一つではなく、横長のカードの上に、2枚の写真が並べてあるのだ。一目見ると同じ写真に見えるが、実はそうではない。風景は同じだけれど、それを撮ったカメラは、人間の眼と同じように、一つではなく二つのレンズを持っていたのだ。左のレンズは人間の左目が見るような写真を、右のレンズは人間の右目が見るような写真を撮る。一対のレンズを通して見ると、この二つの写真が一つに重なって、まるで本物の風景のように見えるのだ。このステレオスコープ用に、他にも、いろんな国のいろんなものを写した写真を買うことができた。

 

 

この他に、ぼくはもう一つ、おもちゃの器械を持っていた。これも、今日では見ることができない。「魔法のランタン(magic lantern)」という名前だった。箱のように見えるけれど、正面の膨れた管の中にレンズがあって、上に煙突が、右横には把手が一つ、ついていた。おまけに、箱の中にはフィルムを巻くためのリールが二つ。その一つにフィルムを入れて外についている把手を回すと、それがもう一つのリールに巻き取られる仕掛けになっていた。そのフィルムはレンズのすぐ後ろを通る。箱の中では灯油の明かりが燃えていて、その煙は煙突を通って外に出ていき、その明かりは巻かれていくフィルムを照らして動画を壁に映し出す。実のところ、ぼくが映画に惹かれるようになった最初のきっかけは、もしかすると、この「魔法のランタン」だったかもしれないのだ。

ショナ叔父さんの遊び仲間の中に、ぼくらの家の一階の東側の部屋に住んでいた、もう一人の叔父さんがいた。実は、彼は、本当の親戚ではなかった。ショナ叔父さんのダッカにある実家の、すぐ隣が彼の家だったので、それが縁で二人は友達同士になり、その繋がりで、ぼくは彼を、「叔父さん」と呼んでいたのだ。この「カル叔父さん」がカルカッタに来たのは、職探しのためだった。職が決まって何日も経たないうちに、カル叔父さんは、30ルピーもする、真新しいピカピカのラレーの自転車(12) を買ってきた。半年間乗った後でも、この自転車は、買って来た時そのままに、ピカピカだった。なぜなら、カル叔父さんは、毎朝、まるまる半時間かけて、自転車を磨いていたのだ。

訳注

(注1)ボクル=バガン(Bokulbagan)は、南カルカッタの中心地区ボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)の南側を占める地区。「ボクル(和名「ミサキノハナ」)の庭園」の意。

(注2)舶来の小物売り。「アナ」は古い貨幣単位で、1アナは1ルピーの16分の1に相当する。

(注3)「メチェダ」は、カルカッタの西、東メディニプル県の県境の町。「チャナチュル」は、豆粉を捏ねて細いヌードルの形で揚げたものに、南京豆やグリーンピースの揚げたものなどを混ぜ、塩辛い味付けをした、軽食。メチェダ産のチャナチュルは、人気があった。

(注4)「チャトゥッジェ」は、ベンガルの高位バラモンの姓「チャタルジ」の口語形。

(注5)「パートナー」はビハール州の州都。「ラクナウ」はウッタル=プラデーシュ州の州都。

(注6)分母に分数が含まれ、その分数の分母にさらに分数が含まれることを何度も繰り返す、複雑な数式。

(注7)キャラム(carrom)、ルードー(ludo)、バガテル(bagatelle)。いずれも、今日なおポピュラーなゲーム。

(注8)サタジット・レイの呼び名。

(注9)青少年向けの百科事典。1912 年に創刊されて以来、何度も改訂された。

(注10)‘Cassell’s Romance of Famous Lives’ を指すか。ただし、全3巻。1925年創刊。

(注11)ヴィクトリア女王の在位期間、1837~1901年を指す。

(注12)Raleigh Bicycle Company、イギリスの自転車製造会社。1885年創立。1910年代から、世界最大の自転車会社となる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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更新日:2023.07.27