サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』④
ゴルパル(3)
ゴルパルに住んでいる間、どんな勉強をしていたのか、よく覚えていない。ぼんやり思い出すのは、ドンお祖父ちゃんの娘のブル叔母さんが、ぼくに、英語の本の第1巻を教えてくれていたこと。本の名前は ‘Step by Step’ だった。どんな体裁の本だったかも覚えている。もちろん、母さんも教えてくれていたには違いないけれど、いま思い出すのは、母さんが英語の物語を読みながら、それをベンガル語にして聞かせてくれていたことだ。中でも、二つの怖い話は、絶対に忘れられなかった——コナン・ドイルの「青の洞窟の怪」と「ブラジル猫」だ。
ブル叔母さんの妹は、トゥトゥ叔母さん。この叔母さんは、ぼくらの家から歩いて3分の、上部環状道路(Upper Circular Road)(1) に住んでいた。家で誰かが大きな病気になると、母さんはその看護で忙しくなった。そんな時、ぼくはトゥトゥ叔母さんの家に行った。窓枠に赤・青・黄・緑のガラスを嵌め込み、床がモザイク細工だったこの昔風の家が、ぼくにはとても面白かった。家の正面のベランダは、じかに大通りに面していた。その通りの一方の側に、鉄道の線路があって、そこを通って小さな汽車が行き来した。思い出す限り、それは人間が乗るための汽車じゃなくて、いつも貨物を載せて走っていた。街のゴミを、ダパの野原 (2) に捨てるために運んでいたのだ。その汽車を、みんなはからかって、「ダパ行き便」と呼んでいた。
トゥトゥ叔母さんの家に泊まっている何日かの間は、叔母さんがぼくの勉強の面倒を見てくれた。そして、叔父さんが夕方仕事から戻ると、叔父さんの車に乗せてドライブに連れて行ってくれた。家での病気が治ると、ぼくはまた、ゴルパルの家に帰った。
家にいる時は、夕方に、時々、ジョゴディシュチョンドロ・ボシュ卿(3) の家まで、散歩に行った。この家も、ぼくらの家から歩いて5分の、同じ上部環状道路沿いにあった。ジョゴディシュ・ボシュは、その頃、ベンガルで一番有名な人の一人だった。木に生命があることを発見して、そのために「サー」の称号をもらったのだ。もっとも、ぼくらが彼の家まで出かけたのは、彼に会うためではなくて、彼の庭園の一方の側にあった、動物園を見学するためだった。
でも、ほとんどの日は、夕方を家の屋上で過ごした。
ぼくには、血の繋がる兄弟姉妹は無かったけれど、家で一人ぼっちだったわけじゃない。家の遊び仲間のうち、料理人のバラモン女性の息子ホレンはぼくと同い年、女中シャマの息子チェディはぼくより4, 5歳年上だった。
シャマの家は、モーティハリー (4) にあった。シャマは、ふだんは片言のベンガル語で話したけれど、何かの理由でびっくりすると、頬に手をやって、こんなビハール方言の言葉が口から飛び出した——「アンレ、マア! 見ンサイナ!」 息子のチェディは、ベンガル語が上手で、いろんなことが得意だった。そのうちの一つは、凧揚げ競争。凧糸にガラスの粉をなすりつけるために、ぼくらは家の屋上で、三本の鉄柱に糸を巻きつけたものだ。糸巻きを持つのがぼくの役目だった。ヴィスヴァカルマー祭祀の日 (5) 、北カルカッタの空が凧で覆われる時こそ、チェディの腕の見せ所だった。周りの屋上から聞こえてくる、凧を上げる子供たちの叫び声で、近隣は大騒ぎになった——「やっちまえ! もっとやれ!」「やっちまえ! ひっかけろ! まわせ、まわせ!」 そして凧糸を切るのに成功すると、「行っちまった!」
チェディはとても器用だった。10歳か12歳の時に、自分の手で、色付きの薄紙を貼り合わせて天灯 (6) を作り、カーリー女神の祭祀の日 (7) に、屋上から空に浮かべたのだ。この他にも、チェディが作った、他の誰も真似のできないものが二つあった。
まず第一に、「鍵爆弾」。4, 50センチの長さの竹筒を手に取って、その先の方を少し割り、その割れ目に、鍵の、手で握る方の側を挟み込んで、しっかり縛り付け、鍵が竹筒から直角に突き出るようにする。鍵にはふつう、二種類ある –– 先の方が閉じているのと、開いて穴が空いているのと。この場合は後のタイプの鍵が必要だ –– なぜなら、その穴の中に、火薬を詰める必要があるから。チェディは、マッチの頭から火薬を取り出し、その穴の中にそれを詰め込んだ。
こうしておいて、その穴の中に、今度は、ピッタリ嵌りそうな釘を差し込むのだ——釘の先と火薬の間に、2, 3センチの隙間を空けて。
こうしてから、竹筒を手でしっかり持ち、釘の頭を壁に強く押し付けると、空気圧で、鍵の中の火薬が、爆弾のような音を立てて破裂するのだ。
この他にも、チェディは、ヨーグルトを入れる素焼きの器で、ランタンの一種を作った。ぼくは、それを見るのが、すごく面白かった。器の丸い底を切り取って、そこに色ガラスを一枚、嵌め込んだのだ。そうしてから器の内側の横の方に蝋燭を立てて、それに火を点し、器の上部を、穴の空いたボール紙をかぶせて閉じる。穴が必要だった——なぜなら、空気が入らないと、蝋燭が消えてしまうから。
しまいに、器の縁に縛りつけた紐を手で持って、暗闇の中を歩き回る。そうすると、色ガラスを通って色のついた光がこぼれ出て、まるで、豪華なランタンを持っているような気分になったものだ。
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ウペンドロキショルお祖父さんは5人兄弟の2番目で、この5人のうち、二人を除いて、残りは皆、ブラーフマ教徒 (8) だった。シャロダロンジョンが長兄で、お祖父さんのすぐ下の弟がムクティロンジョン。ぼくは、シャロダロンジョンを「大お祖父ちゃん」、ムクティロンジョンを「ムクティお祖父ちゃん」と呼んでいた。この二人の家に行くと、すぐに目についたのは、お嫁さんたちの髪の分け目が辰砂で朱色に染まっていて(9) 、サリーの着付けも違っていたし、男たちの腕には、丸いお守りが巻きつけてあったこと。祭室からは法螺貝と鉦の音が聞こえてきて、お祖母さんたち叔母さんたちは、そこから神饌を持って来て、ぼくらの口に入れてくれた。でも、自分の家とはこんな風に違っていても、彼らがあかの他人だと思ったことは、一度もなかった。実際、宗教のことを除けば、お祖父さんの兄弟たちは、一人一人、とてもよく似ていたのだ。ヒンドゥー教徒の大お祖父ちゃんとムクティお祖父ちゃんは、スポーツや釣りが好きだったけれど、ブラフマー教徒のドンお祖父ちゃんもまったく同じだった。クリケットを最初に始めたのは大お祖父ちゃんで、その後、この競技は、ヒンドゥー教徒ブラーフマ教徒を問わず、ラエ家全体に広がった。
クリケットがしっかり根付いたのは、ショナお祖母ちゃんの家だった。ショナお祖母ちゃんは、ウペンドロキショルお祖父さんの妹。ブラーフマ教徒のボース家に嫁いだ。旦那のヘメン・ボース(10) は、香水や香辛料の商いをしていた。
髪に塗るなら 「クントリン」
薫るハンカチ 「デルコース」
パーン(11) に包むは 「タンブリン」
どうもありがと、 H(エイチ)・ボース
この四行詩を入れた広告が、いろんな新聞に載っていた。
香料の商いの他にも、H・ボースは、しばらくの間、もう一つ別の商売をしていた。あるフランスの会社と提携して、グラモフォン・レコードを売っていたのだ。そのレコードを、ぼくらは小さい時に、よく聞いた。レコード盤は、時計とは逆さまの方向に回り、レコード針のついた音響装置は、盤の真ん中から、外に向かって動いた。
ショナお祖母ちゃんには、14人の子供がいた。純白の肌で、80歳まで生きたのに、死ぬまで髪は一本も白くならず、歯も一本も欠けることがなかった。
4人の女の子の長女がマロティ叔母さんで、当時は有名な歌手だった。長男のヒテン叔父さんは熟練した絵描きで、古典歌曲の通で、フランス語ができて、高価な希少本を蒐集していた。輝くような肌の色の、美男子だった。下の弟、ニティン(プトゥル叔父さん)は、後に、著名な映画監督兼カメラマンになった。ぼくが子供の頃覚えているのは、プトゥル叔父さんがアッサムに行って、小さな映画用カメラを自分で回して、象の群れを囲い柵に追い込む「ケダ狩り」の映像を撮り、帰ってきてそれを見せてくれたことだ。叔父さんは、その映像を、後でイギリスの会社に売り払った。
その下の弟のムクル叔父さんは、足に障害があって、びっこをひきながら歩いた。正規の学校教育はほとんど受けなかったけれど、機械に関しては並外れた才能を持っていた。植物学者のジョゴディシュ・ボシュが研究に使う、複雑な機材の数々を修理できるのは、カルカッタでは、ムクル叔父さんただ一人だった。後になって、叔父さんは映画事業に係るようになり、音響録音の技術者として名声を馳せた。
その下の4人の弟、カルティク、ゴネシュ、バピ、バブは、みんな、クリケット選手だった。ぼくがまだ小さかった頃、カルティク叔父さんは有名になったばかりで、ベンガル人の中でこんなバットマンは初めてだと、みんなが口を揃えて言っていた。アムハースト・ストリート(12) にあった彼らの家を、夕暮れ時に訪れると、カルティク叔父さんかゴネシュ叔父さんが、大きな鏡の前に立って、バットを手に球を打つ練習をしているのを、必ず目にしたものだ。家の庭には石を敷き詰めたピッチがあり、バッティング練習用の特別製のバットがあった。ふつうのバットの両側を削り取って、真ん中の部分だけ残したものだった。
アムハースト・ストリートのボース家は、何もかもがこんな調子だった。こんな賑やかな家を、ぼくは他に、見たことがない。
訳注
(注1)Upper Circular Road (アパー・サーキュラー・ロード)は、北カルカッタ、シアルダー駅の北西を通る大通り。南カルカッタの下部環状道路(Lower Circular Road)と共に、19世紀当時のカルカッタ市街の周りを囲んでいた。
(注2)カルカッタの東迂回道路の東側に接する地域。1865年からカルカッタのゴミの集積場となり、北カルカッタからこの地まで、市内のゴミを運ぶ鉄道が建設された。
(注3)英名Sir Jagadish Chandra Bose (1858 ~ 1937)。著名な生物学者・物理学者。「クレスコグラフ」を発明してさまざまな刺激に植物が反応することを示し、動物細胞と植物細胞の類似性を証明した。電波、マイクロ波の研究でも有名。1917年、インドで最古の学際的研究機関 Bose Institute を設立。「ベンガル語SF小説の父」としても知られる。
(注4)ビハール州の北西部に位置する町。
(注5)この世界を建築したとされる神様。バドロ月の晦日(9月半ば)に、手職人・職工・機械工・建築士などによる祭祀がある。
(注6)簡便な熱気球の一種。上を紙で覆い、下部に油を浸した紙などを取り付けて燃焼させ、その熱で空中に上昇させる。
(注7)カーリー女神の祭祀は、カルティク月(10月半ば〜11月なかば)の新月の日に行われる。
(注8)ブラーフマ教は、絶対者ブラーフマンを唯一神として、偶像崇拝を否定する、新興宗教。ベンガル近代の宗教・社会改革を主導したラムモホン・ラエ(英名Ram Mohan Roy, 1772—1833)が、その布教を始め、1830年に「ブラーフマ協会」を設立。後に、詩聖タゴールの父デベンドロナト・タクル(英名Debendranath Tagore, 1817—1905)がその運営を引き継ぎ、布教活動を推進する。サタジット・レイの祖父ウペンドロキショルは、ブラーフマ教徒のダロカナト・ガングリの影響を受け、その長女ビドゥムキと結婚した。
(注9)既婚のヒンドゥー女性の印。
(注10)英名Hemendra Mohan Bose(ベンガル語名「ヘメンドロモホン・ボシュ」、1864~1916)。ジョゴディシュチョンドロ・ボシュ卿(注3)の甥にあたる。ここに言及されている、香料やレコードの販売だけでなく、自動車業、自転車業、出版業、カラー写真撮影、映画産業にも手を染めた。出版社「クントリン・プレス」は、後に「クントリン文学賞」を創設、ベンガル語文学の発展に貢献した。
(注11)キンマの葉に、檳榔子や石灰等の香料を包んで噛む、清涼用の嗜好品。
(注12)Amherst Street は、上部環状道路(注1)の3~400メートル西側を、並行して走る通り。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
更新日:2023.06.19