サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』③

ゴルパル(2)

ゴルパル・ロード百番地(北カルカッタ)の生家(1) に、ぼくは、5歳になるまで住んでいた。その後、いろんな家に移り住んだ –– そのどの家も、全部、南カルカッタだった。でも、ゴルパル・ロードの家ほど奇妙キテレツな家に住むことは、決してなかった。

 

家だけでなく、印刷所までついていたのだ。ウペンドロキショルお祖父さん(2) が、自分の手で装飾を施してその家を建てたのだけれど、住むことができたのは、たったの4年かそこらだった。ぼくが生まれる5年半前に死んだのだ。家の正面の壁の上方には、セメントで盛り上がったこんな英文字が見えた –– ‘U RAY & SONS, PRINTERS AND BLOCK MAKERS’ (ユー・ライ・アンド・サンズ、印刷所・印刷版製造所)。門を入り、門番ハヌマーン・ミシルの小屋を過ぎて数段階段を上がると、印刷所の事務所に入るものすごく大きな扉がある。一階の正面の側が印刷所で、そのすぐ上の二階が、印刷版を作って活字を組み込む作業場だった。ぼくらは家の後ろ側で暮らしていた。左側の路地を通って行くと、右手に、住まいに至る扉がある。扉を開けて中に入ると、階段が目の前だ。身内の誰かがぼくらに会いに来る時は、階段を上がって右に回り、出版の用事で来た人は、左に回った。左手には印刷版製造部門の扉、右手にはぼくらの居間に入る扉があった。

 

 

ぼくらの家の西側に接して聾唖学校があり、東側、つまり庭の壁の向こう側には、アセネーアム学園(Athenaem Institution(3) があった。真昼時、自動車の往来が途絶えると、あたりは無気味に静まり返り、アセネーアム学園からは、生徒たちの九九表を暗誦する声や教科書の文章を読む声、それに混じって、時には、先生たちの叱り声が聞こえた。夕方になると、聾唖学校の生徒たちが、家のすぐ横の校庭でスポーツをする。ぼくらはそれを、屋上から見ることができた。でも、本当に見たと言えるのは、年に一度開かれる、学校のスポーツ大会の時だった。

 

この屋上は、三階の、印刷所の真上にあった。ぼくらが泥棒遊び(4) や凧揚げをしたのは、ここだ。広い屋上の他にも、西側には、もう一つ別の狭い屋上があった。お祖父さんの仕事部屋もこの三階にあった –– ぼくが生まれてこのかた、ずっと空のままだったけれど。この部屋に残されていて、後でぼくのものになったものが、一つある。木製の箱で、その中には、お祖父さんが使った絵の具、筆、そして油絵を描くのに使うアマニ油の壜が入っていた。

 

三階の南側の部屋には、ぼくらが「叔父貴」と呼んでいた、上の叔父さん(父シュクマル・ラエの次弟)、シュビノエ・ラエが住んでいた。父さんが死んだ後、印刷所を運営していたのは、この叔父貴だった。その頃は、ドイツから、いろいろな種類の紙の見本帳がぼくらの事務所に届いた。厚い紙、薄い紙、絹のように滑らかな紙、ざらざら、ぴかぴか、でこぼこ、一体、何種類の紙が来たことか。部屋に行くと、叔父貴は、ぼくの手にそうした見本帳を一冊渡して、言ったものだ –– 「見てごらん。この中の、どれを使ったらいいと思う?」 ぼくは、物知り顔に、紙の一枚一枚に手をすべらせながら、どれが使えてどれが使えないか、告げたものだった。ぼくの選んだ紙がドイツから来るものと、信じ込んでいたのだ。

 

叔父貴の息子のショロルが、ぼくの唯一人の従兄だった。でも、この従兄と叔母さんは、ジャバルプル(5) の、叔母さんの実家にいることの方が多かった。従兄が通っていたのは、そこにある、白人のための学校だった。従兄(にい)さんの名前はショロルだったけれど、学校の白人生徒たちは、彼をシリル(Cyril)と呼んでいた。

 

その同じ三階に、もう一つ部屋があって、そこでは、下の叔父さん(父シュクマル・ラエの末弟)、シュビモル・ラエが暮らしていた。後のち、ぼくはこの叔父さんと、とても近しい間柄になった。ゴルパルにいる頃、よく覚えているのは、叔父さんがご飯を食べる時、ぼくらよりも、まるまる一時間、よけいにかかったこと。なぜなら、食べ物を口に入れる度に32回噛むのが、叔父さんの習慣だったから。こうしないと、食べ物がちゃんと消化されないのだそうだ。

 

ぼくと母さんは、二階の南側、叔父貴の部屋の真下に住んでいた。西側にある部屋の一つには、寡婦のお祖母ちゃん(祖父ウペンドロキショルの妻)が住んでいた。ぼくはよく、お祖母ちゃんと一緒になって、籠の中から、昔の『ションデシュ』誌の絵の印刷版を選った。それについている汚れをはたき落としたり拭ったりして、大切にしまっておいたのだ。お祖母ちゃんは、ぼくがゴルパルにいる間に、亡くなった。

 

ゴルパルでの生活で、一番よく覚えているのは、ドンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの二番目の弟)、クロダロンジョン・ラエ (6) のことだ。ドンお祖父ちゃんは、一階の、ぼくらの寝室の真下で暮らしていた。お祖父ちゃんは、体操用の棍棒を振り回したり、死んだ人の写真を拡大したり、ぼくにインド聖典(プラーナ)の物語を聞かせたりした。むかしは、クリケットの選手だったこともある。向かうところ敵なしの白人チーム「カルカッタ」を相手に、ベンガル人チーム「タウン・クラブ」のメンバーとして戦った時のこと。99まで打点を稼いだのだが、そこで釘付けにされ、そこからどうやって抜け出して遂にセンチュリー(100打点)を達成したか –– この話は、ドンお祖父ちゃんの口から何度も聞かされた。ぼくが出会った頃は、お祖父ちゃんはもう、クリケットをやれる歳ではなかったけれど、試合を見ることへの情熱は、死ぬまで変わらなかった。「MCCオーストラリア」チーム(7) がカルカッタに来た時は、お祖父ちゃんの頭には、イーデン庭園クリケット・スタジアム (8) のことしかなかった。

 

ドンお祖父ちゃんの仕事は、写真を拡大すること。小さい写真を大きくして仕上げる作業を、お祖父ちゃんは、自分の部屋でした。油絵を描く時に使う画架のような台に、拡大した写真を立てかけ、足で鞴(ふいご)のような器械を踏んで、手に持ったエアブラシの細い尖から絵の具を吹きつけ、写真の仕上げ作業を続ける –– ぼくはそれを、立ったまま見つめていた。ほとんどの写真は、白黒かセピア色だったけれど、一度、ナトルの領主、ジョゴニンドロナラヨン (9) の写真を、カラーで仕上げるのを見たことがある –– 草木を緑に、カシミアのショールを赤く染めて。新しく領主になったジョギンドロナラヨンが、その横にすわって、ドンお祖父ちゃんの作業を見ていたのも覚えている。

 

知り合いの家庭で誰かが死ぬと、必ず、ドンお祖父ちゃんのところに、写真を拡大する注文が来た。集合写真の中のちっぽけな顔、それもあまり鮮明でないのが、お祖父ちゃんの手で拡大され仕上げられて額縁の中に収まったのを見ると、その本人が、写真の中から、ぼくらの方を見つめているように思えたものだ。誰かが死んで、ほんの数日のうちに、茶色の紙に包まれた額縁入りの写真を小脇に抱えて、ドンお祖父ちゃんが現れる。写真を包みから開き、皆の前で、テーブルの上に立てかける。その写真を見て、死んだ人の親類縁者たちは、目の涙を拭ったものだった。こんな光景を、子供の頃、ぼくは何度も、自分の目で見た。

 

ゴルパルにいる間に、ドンお祖父ちゃんの書いた児童向けの本が、‘U RAY & SONS’ から、たくさん出版された –– 『イリヤード』、『オデッセイ』、『インド聖典(プラーナ)の物語』、『ヴィクラム王と死霊べタールの25の物語』 (10) 、『ヴィクラマーディティア王32の王座』 (11) 、『カター・サリット・サーガラ』 (12) 。こうした本は、印刷所二階の部屋の仕切られた一角に、山積みにされていた。もっとも、その物語の多くは、『ションデシュ』誌に、すでに掲載されていたものだったけれど。

 

父さんが死んでからも、二年間、『ションデシュ』誌は刊行された。一階の印刷所で『ションデシュ』が刷られている、その三色カバーが刷られている –– その様子を、ぼくははっきり覚えている。印刷所にぼくが首を突っ込むのは、真昼時だった。二階に行くことの方が多かった。入ると、すぐ右手に、活字工たちが、何列にも並んでいるのが見えた。彼らは、仕分けされた活字の入った箱の上に屈み込み、原稿の文章に合わせて、活字を選んでは嵌め込み、一行一行、並べていくのだった。みんなと顔見知りになっていたので、部屋に入ると、全員ぼくの方を見て、笑みを浮かべた。ぼくは彼らの傍を通り、部屋の奥へと進んだ。今でも、テレピン油の匂いを嗅いだだけで、 ‘U RAY & SONS’ の印刷版製造部門の光景が、目の前に浮かんでくる。部屋の真ん中には、巨大なプロセスカメラが据えられていた。カメラの扱い方を相応に身につけていたのは、ラームダヒン。彼は、最初は単なる使いっ走りとして、印刷所に入ったに過ぎなかった。ビハール出身だった。お祖父さん(ウペンドロキショル)が、手ずから、彼に仕事を仕込んだのだ。このラームダヒンは、家族の一員も同然で、ぼくは彼に、どんなことでもおねだりした。落書きを描きなぐった紙を一枚、彼のところに持って行って、「ラームダヒン、これ、『ションデシュ』に載せてよ。」と言うと、ラームダヒンは、すぐさま頭を傾けて同意を表し、「わかりました、お坊っちゃま。」と答えたものだった。それだけじゃない。下を向いたカメラレンズの下にその絵を広げると、ぼくを抱きかかえて、カメラ後方の磨きガラスに映る、上下逆さまの映像を見せてくれたのだ。

 

訳注

(注1)シアルダー駅の北、数百メートルに位置する。改装され、現在は、(注3)のアセネーアム学園が使用している。門の横には、祖父ウペンドロキショル、父シュクマル・ラエ、そしてサタジット・レイ本人の、三人の彫像が、並んで飾られている。

(注2)ウペンドロキショル・ラエチョウドゥリ(1863~1915)。著名な児童文学作家・イラストレーター。ヨーロッパの印刷技術を改良して、新たな印刷技術を考案・導入したことでも知られる。タゴールともたいへん親しかった。

(注3)西ベンガル州立の、ベンガル語を媒介とした男女共学校。1895年設立。「アセネーアム」は、ローマ皇帝ハドリアヌスが紀元二世紀に設立した文化施設の名称。

(注4)「ハンカチ泥棒遊び」を指すと思われる。子どもたちが輪になり、真ん中を向いてしゃがみ込み、目を閉じる。最初に泥棒役になった子供が、その外周をぐるぐる回りながら、そのうちの一人の背後に、そっとハンカチを落とす。ハンカチを落とされた子がそれと気がつかない場合は、最初の子供が、その子の背中を叩いて新しい泥棒役にし、その子の座っていた場所を代わって占める。ハンカチを落とされた子がそれと気がついた場合は、逆にその子が最初の子を追いかけてその背中を叩く。

(注5)マディヤ・プラデーシュ州の中央に位置する都市。

(注6クロダロンジョン・ラエ(1878~1950)。児童文学作家・写真家、クリケット選手。

(注7MCCは、メルボルン・クリケット・クラブ(Melbourne Cricket Club)の略称。1838年創立。オーストラリアで最古・最大のクリケット・クラブ。

(注8カルカッタの中心部にあるイーデン庭園公園(Eden Gardens Park)の一角に建てられた、インド最古のクリケット競技場。1864年に作られ、何度も拡張されて、現在では8万人の観衆を擁する規模になっている。

(注9)大王ジョゴニンドロナト・ラエ・バハドゥル(1868~1925)。ナトル(現バングラデシュラジュシャヒ県在)の大地主(ザミンダール)。ムガル王朝時代からの由緒ある家柄で、南カルカッタに大邸宅があった。クリケット好きで知られ、故郷のナトルにクリケット・スタジアムを建設。カルカッタのベンガル人チーム「タウン・クラブ」のスポンサーでもあった。

(注1011世紀のカシミールの詩人、ソーマデーヴァ・バッタの作(サンスクリット語)。死霊べタールが伝説の王ヴィクラムに語る、25篇の物語からなる。

(注11)ヴィクラマーディティア王の功績を語る、32の物語集(サンスクリット語)。作者不詳、11世紀頃の作品と考えられている。ムリットゥンジョエ・ビッダロンカルにより、1802年、ベンガル語に訳された。

(注12)ソーマデーヴァ・バッタ作の、サンスクリット語説話集。18350篇の物語からなる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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更新日:2023.05.26