サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』②

ゴルパル(1)

ぼくらの子供の頃にあったものの多くは、今では、影も形もない。いまどき、家のベランダの手摺りに、「貸家」と書かれたボール紙がぶら下がっているのを、目にすることがあるだろうか? その頃は、どこの居住区に行っても、こんな看板にお目にかかったものだ。子供の頃、ウォルフォード・カンパニー(1) の赤い二階建てバスには、屋根がなかった。そのバスの二階に上がって、風に吹かれながら行く楽しさときたら、他に比べようがなかった。街頭は、その頃、随分ともの静かで、交通渋滞という名の悪夢は無いに等しかった。でも、何よりも大きな違いは、自動車の姿だった。一体いくつの国の、幾種類の車が、カルカッタの街並みを走り回っていたか、見当もつかない。そうした車一台一台の、姿かたち、警笛の音は、みんな違っていた。家の中にいても、警笛の音を聞けば、どの車かがわかった。フォード、シボレー、ハンバー、ボクスホール、ウーズレー、ダッジ、ビュイック、オースチン、スチュードベーカー、モーリス、オールズモビル、オペル、シトロエン –– こうした車の数々は、今や街から、すっかり姿を消してしまった。今日、屋根の無い車が、一体、何台見られるだろうか? ちっぽけなベイビー・オースチン(オースチン・セブン)なら、時に一、二台、その姿を見かけることもある。でも、蛇の鎌首の「ボア・ホーン」をつけた巨大なランチアや(キャディラック・)ラサール –– こうした、自動車の貴族(アミール)とも言うべき車となると、夢の中で出逢ったとしか思えない。亀の甲羅みたいな流線型の車が、はじめてカルカッタに現れたのも、もう、ひと昔前のことだ。それに、馬車というものだって、今日では、めったに目にすることがない。ゴルパルの家には自動車がなかったので、ぼくらはしょっちゅう、馬車に乗ったものだった。箱型の馬車は、快適というにはほど遠かったけれど、二頭立て四輪馬車に乗った時の楽しさは、今でも覚えている。

 

今日では、空を爆音で揺るがせて、ジェット飛行機が街の上を往き来する。その当時、この音は、人間には未知のものだった。時には、二人乗り飛行機が空に姿を見せることもあった。その頃、ドムドムとベハラ(2) で飛行クラブが始まり、ベンガル人たちが飛行機の操縦技術を身につけ始めた。こうした飛行機からは、時々、広告の紙がばら撒かれた。何千枚もの紙が一気に投げ出され、それらは風に乗って、街のさまざまな場所に撒き散らされた。一度、何枚かがぼくらのボクル=バガン(3) の家の屋上に落ちたことがある。拾ってみると、靴メーカー、バタ(Bata)(4) の広告だった。

 

日用品、薬の類も、どんなに様変わりしたか、考えただけでも、気が遠くなってしまいそうだ。ナイロンが出回る前の時代の、白色のコリノーズ歯ブラシ(5) を、いまどき使う人は、もう誰もいない。ぼくらは、コリノーズ歯ブラシに、コリノーズ歯磨き粉をつけて、歯を磨いたものだった。黒色のスワン万年筆、ウォーターマン万年筆(6) の材質は、「ガタパーチャ」(7) と呼ばれていた。焼けると嫌な臭いがしたものだ。でも、そうした万年筆が、今使われているペンよりもずっと長持ちしたことは、認めなければならない。

クワリティ(Kwality)・ファリニ(Farinni)(8) といった店がある今時、誰が、家の冷凍庫を使って、アイスクリームを作ろうとするだろうか? ぼくらが子供の頃は、木製のバケツについた鉄の把手をガラガラ回す音が耳に入ると、わくわくしたものだった。なぜなら、家で作ったバニラ・アイスクリームは、押車で売りに来るアイスクリームとは、比べ物にならないほどおいしかったから。

 

子供の頃、病気になると、お医者さんが処方箋を書き、医局では、その処方箋を見ながら混ぜ合わせた薬を入れて、その瓶を渡してくれたものだった。何より面白かったのは、瓶の横に糊付けされた、薬の分量を示す切り込みの入った、紙切れ。これは、今ではほとんど見ることがない。その頃、風邪をひくと、足湯がお決まりだった。部屋の扉や窓を閉じて、桶の湯の中に足をつけたまま、すわっていなければならなかった。それで風邪が治ったかどうかは、でも、覚えていない。便秘になると、その頃は、ヒマシ湯を飲まなければならなかった –– その味、その臭いには、身体中、虫唾が走る思いだった。マラリア予防のためには、キニーネの錠剤を飲む他、道はなかった。なのに、ぼくは、錠剤を呑み込むことができなかったのだ。一度、ダッカに行ったことがある。そこではマラリアが流行っているので、キニーネを飲まなければならない。しゃぶりながら飲んだ。そのとんでもなく苦い味は、今でも口の中にそのまま残っている。カプセルに入った錠剤を飲むようになってから、ぼくらは、薬というものがまずいこともある、ということを、忘れてしまったのだ。

 

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まったくの幼児だった頃のことは、あまり長いこと、人間の頭に、残らない。父さんが死んだ時、ぼくは2歳半だった。その出来事は記憶に残っていない。でも、父さんが病気で、ぼくが2歳かそれより小さい時に起きた、二つの出来事を、ぼくははっきり覚えている。

 

父さんが病気になったのは、ぼくが生まれてすぐの頃だった。この病気は治ることはなかったけれど、時々、少し持ち直したように感じられた。そんな折、父さんを、転地療養のため、カルカッタの外に連れ出すことがあった。父さんと一緒に、ぼくは、一度はショドプル(9) 、もう一度はギリディヒ(10) に行った。ガンガーに接したショドプルの家の、中庭のことは、覚えている。ある日、父さんが、部屋の窓際にすわって絵を描いていた時、突然、「船が過ぎて行くぞ」、と言った。ぼくが走って中庭に出ると、目の前を、ぼーっと汽笛を鳴らしながら、蒸気船が一艘、通り過ぎって行ったのだ。

 

ギリディヒの出来事には、父さんの姿はなくて、家の古くからの召使、プラヤーグがいた。ぼくとプラヤーグは、夕暮れ時、ウスリ川(11) の岸辺の、砂の上にすわっていた。プラヤーグが、砂を掘れば水が出てくる、と言うので、ぼくは、大張り切りで砂を掘り始めた。手には、おもちゃ屋で買った木のシャベルがあったのも、覚えている。その結果、水は確かに湧いてきたのだが、その時、どこからか一人の先住民の娘がやって来て、その水で手を洗ったのだ。ぼくが掘ったおかげで出てきた水なのに、他人がやって来て、勝手に手を洗って行くなんて –– そう思って、少し腹が立ったのも覚えている。

 

 

訳注

(注1)Walford & Company。 1922年、カルカッタに、初めてバスを導入。1926年から、二階建てバスを走らせた。

(注2)ドムドム(Dum Dum)は、カルカッタ北部、現カルカッタ空港のある地域。ベハラ(Behala)は、カルカッタ南西部の、フグリ川に接した地域。

(注3)ボクル=バガン(Bokulbagan)は、カルカッタ南部のボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)地区にある地名。「ミサキノハナ(ボクル)の庭園」の意。

(注4)オーストリア=ハンガリー帝国(現チェコスロバキア共和国)で1894年に創立された、靴製造メーカー。1931年からインドで生産を始め、1934年には、カルカッタ郊外に、「バタノゴル(Bata=nagar)」と呼ばれる工業都市を形成、インド最大の靴製造メーカーとなる。1973年、Bata India Pvt Limited として独立。

(注5)コリノーズ(Kolynos)歯ブラシ・歯磨き粉は、アメリカ人の歯医者 Newell Sill Jenkins が1908年に開発。1930~40年代に、広く普及した。

(注6)スワン万年筆はイギリス製、ウォーターマン万年筆はフランス製の、高級万年筆。

(注7)マレーシア原産のアカテツ科の木。その樹液から作られる天然ゴムが、万年筆の胴体に使われた。

(注8)いずれも、アイスクリームやパン・菓子類の製造・販売で、有名な店。

(注9)カルカッタの北郊外、中心部より15キロほどに位置する、ガンガー沿いの住宅区域。

(注10)ジャールカンド州の高原の町。

(注11)ギリディヒの山間を流れる渓流。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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更新日:2023.05.12