サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2)

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2) 

⚫️師匠探しの旅 

1981年の2月の初旬。当時日本・インド間を就航していた航空会社は他にも何社かあったが、国営ということで1番安全そうなAir Indiaのチケットを、現トラベル・ミトラの大魔王こと大麻社長にお願いして取ってもらった。インドに行くのは勿論、海外も飛行機も初めてである。今のようにYouTubeSNSも無く、オディッシーのグルやダンサーの情報もほとんど無い。北インドのシタールやタブラ、南インドのバラタナティヤムなら若干の情報はあったが、東インドのオリッサの踊りの情報など蜃気楼のような心許ないものであった。オディッシーをインドで習ったことがあるバラタの先輩達からは一様に、オディッシーに焦点を合わせて習いたければ本場のオリッサに行った方が良いと言われた。が、どこで誰に習えるかなんかはわからないので、取り敢えずは行ってみたらわかるだろうというのが周りのインド関係者の意見であった。具体的なグルの名前やスクールの情報もほとんどなかったので、その意見に従うことにした。いまだにころころ変わるVISAの種類であるが、当時は30日以内のVISAが入国時に無料でもらえるサービスがあったので、それでとにかく現地に行ってリサーチの旅に出ることにした。 

京都在住だったので、大阪からの出発となった。当時はまだ関西国際空港はなかったので、大阪の伊丹空港からの出発となった。現在ではLCCなどを利用すれば、インドの様々な都市に飛行機で行くことができるが、当時はマイナーな都市ブバネシュワールにはカルカッタ(コルカタ)まで行って、Indian Airlinesに乗り換えるか、ハウラー駅から夜行列車で入るのが1番の近道だった。カルカッタまでの直通航空便は無かったと思うので、いろんな航空会社が乗り入れているタイのバンコクで何日もトランジット待ちをして、そこからカルカッタに入った。 

⚫️旅の途中~バンコクにて 

インドどころか、海外も飛行機も初めての体験である。出発前は、ワクワクよりも不安の方が勝っていたと思う。下調べだけは入念に行なっていたので、バンコクでは現地の方と結婚して住んでいらっしゃるある日本人女性のお名前と住所を教えていただいていた。といっても、手紙や電話で連絡もしてないし、突撃のようなものである。どこをどうやって探したのかはよく覚えていないが、とにかくそのバンコク在住の女性の家を探し出し、事情を話すと、快く泊まらせていただけた。お家はホテルをされていて、その一部屋を無料で提供していただけた。ご主人はタイ人だが、中華系とのこと。聞けば、タイ人の半数くらいが中華系の血を引いているらしい。でも言葉もタイ語だし、たまに中国語も話されるが、読み書きは殆ど出来ないとおっしゃっていた。蒸し暑いバンコクで、ひんやりした床に清潔なベッドは有り難かった。私が貸していただいたお部屋は2階にあり、朝ご飯は1階に食堂があるので、そこにいるお姐さんに頼んだら作ってくれるとのこと。前日は夕方に到着したので分からなかったが、翌日目が覚めて起きると、窓の外に見たことのない風景が飛び込んで来た。ホテルの裏には小川が流れていて、その小川を何か植物の葉っぱのようなものが覆っている。なんか、子供の頃に図鑑か何かでみたような覚えがあって、記憶を辿ると思い当たったのはオオオニバスという蓮の葉だった。よくある蓮の葉のように茎が水から上まで伸びずに、水面に張り付いた葉の周りをぐるりと取囲むように端は立ち上がり、大きなお盆のような形をしていて、人が乗れるくらい大きい。叫びたいほどの熱帯の生命感を感じて、恐ろしくもあった。つくづく遠くまで来たんだなと思った。 

80年代当時の日本はアジア1番の先進国で、お金持ちの国だと思われていた。今の状況からは想像もつかないが。実際に旅行中は日本での1~2割程度の値段で食べたり買い物が出来たりした。お金をそんなに持っていなくても、日本では出来ないようなリッチな体験を味わうことが出来た。例えば、バンコクの中央郵便局の近くにあった高級ホテルのデュシタニ・ホテル(ホテルは今もあります)にも気軽に入れたし、そこのコーヒーショップでくつろぐのは最高だった。その頃の物価は日本に比べて、その他のアジアの国が圧倒的に安かった。インドに行ったら必要なものもバンコクで買おうと思っていたので、市内は結構歩き回った。タイ語は聞き取りすることも出来なかったが、バスなんかにも乗った記憶がある。バスの中から見る景色は、観光旅行をしているようだった。京都の夏を知っているからなのか、そんなに暑さを気にせずに、連日あちこち歩き回った。 

初めてのタイご飯 

朝ご飯は困らなかったが、昼や晩御飯は何を食べて良いのかが分からなくて困った。まず、タイ料理というものを食べたことがなかったのと、注文の仕方が分からない。今ならタイ料理店は日本にもたくさんあるし、なんなら現地タイの屋台でさえ英語表記で値段も書いてあるが、その当時の庶民のレストランは、ガラスケースの中に鳥やら豚やら魚やらが詰め込まれていて、それを選んで、調理法を頼むというシステムだった(今でも基本的には同じ)。けれどほぼ100%タイ文字表記で、値段も分からないし、調理法なんてもっと分からない。日本人の奥さんに市場に連れて行ってもらって近所を歩いた時に教えてもらった「センミーという麺が唯一私が注文できる食べ物で、約1週間の滞在の間に何度食べたことか分からない。センミー・ラグナーは、米の麺に牛肉団子が入っていて、あっさりしたスープの麺料理である。でも、その頃の私は、いわゆる「パクチー」に慣れていなかったので、大量に入ったパクチーにはげんなりしたものだった。今ならきっと美味しいと思うし、また味わってみたいと思う。 

カルチャーショック 

ある時、昼間のバンコク一人ツアーからの帰り、あまりにも疲れてしまったのでタクシーに乗った。お世話になっているご夫婦からは、道が分からなくなったりしたら、タクシーの運転手さんに「ヤワラー(だったと思う)、ホテル〇〇~これは数字~と言えば、みんな知ってるから連れて来てくれるよ」と言われていたので、運転手さんには、そのように伝えた。すると運転手さんは何故か少し沈黙して、「そんな所にどうして泊まっているの?そこがどういう所か知ってるの?」と言った。知り合いに紹介してもらって泊まっていると言うと、怪訝そうに、そのナンバーが振り分けられたホテル群は、いわゆる女性を呼んで売春を行う「特別な宿」ということだった。もちろん当時はそれは違法では無く、国から認められて営業しているホテルである。これは、ちょっとしたカルチャーショックだった。私が生まれる頃までは日本にも「赤線」というところがあったのを親から聞いていたが、持っていたイメージは暗いものだった。でも、ここバンコクの宿にはそんなジメジメした雰囲気はなく、あっけらかんとしていた。1階は小さな食堂になっていたので、誰かしらお姐さんが常駐していたが、化粧っ気もなく、Tシャツに腰巻きをつけた姿で極めてナチュラルだった。今から思うと、彼女たちは田舎から都会のバンコクに出て来た、事情のある貧しい家の出身の女性だったのであろうと思われる。世界で一番古い商売か、なるほどと思った。その少し前に見た、タイを舞台にした映画「エマニエル夫人」は、欧米人のアジア人に対する偏見と蔑視を感じたが、後々聞いたタイの恋愛事情から、日本のように暗いイメージは元々希薄なのではと思った。 

インドへ

そんなこんなしている間にタイでの日々はあっという間にすぎ、いよいよインドに飛び立つ日が来た。朝早いので、ホテルのオーナーさんのお友達が空港まで車で送ってくれることになった。余裕をもってホテルを発ち、お友達のドライバーさんのお家まで行き、とても美味しいご飯をご馳走になり(初めて美味しいと感じたタイご飯)、空港まで送ってもらった。 

ここからやっと、インドへの旅は始まった。 

<続く> 

 

サキーナ彩子 

京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。 

帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。 

更新日:2025.06.07