コロナ激禍のインドを生き延びる!(第1回)

– やはり、日本の将来はインドしかない –

 

日印関係アドバイザー、MIT World Peace University非常勤講師
磯貝 富夫

 いきなり「生き延びる」とは大袈裟に聞こえるかも知れないが、未曽有のコロナ禍はインドをその第二波が襲っており、約二ヶ月前の5月上旬には一日の新規感染者数が40万人、死亡者は4千人を超えるという異常事態に陥り、罹患しても医者に診てもらえないという医療崩壊が報じられ、本来救えるはずの尊い生命が酸素不足によって失われるという、正に死と向かい合う人達が急激に増えていた。PCR検査の陽性反応率も地域によってばらつきはあるが、私が住むMH州では一時3割を超えていたらしい。5月の一ヶ月間にMH州のコロナによる死亡者は25千人を数え、その最悪の都市が私の住むプネ市であったとの報道にも接している。プネ市の人口は700万人とされるが、既にコロナ罹患者の累計は105万人を超えている。計算上は7人に1人が罹患しているということだが、人口の半分がコロナに罹りにくい25歳以下の若者であることを考慮すれば、この計算は「3人に1人」ともなるのではないか。つい最近まで、周囲の友人や仕事仲間が罹患したり、ほぼ毎日のように友人や知人から家族の訃報が届いていたりしたのだから、「コロナ激禍を生き延びる」と言っても決して大袈裟な話ではないだろう。幸い、5月の中旬から第二波はピークアウトしており、徐々にではあるが新規感染者数は減少に転じ、進行中のアクティブ感染者数も減少し始めたところである。因みにこの小文を執筆している2021年6月30日現在の、インドのコロナ感染者累計は3,041万人、死亡者数は399,475人と明日にも確実に40万人に到達する見込みである。(インド厚生省データに基づく「COVID-19 Tracker」による、以下同じ)
 本稿は昨年の3月に始まったロックダウンの衝撃から、徐々に規制が解除されていく中で、自分の身の回りに起こった出来事を日記風に綴った記録であるが、様々な体験の中で、インドとインド人について日頃から思うことや、日印関係の将来の展望についても言いたいことが山ほど出てきた。ともあれ、駄文に加えて冗長になることをお許しいただきたい。

1.インドとのご縁

 2011年の1月、シャープ(株)の社員として最後の駐在地となるインドに赴任して以来、今年の1月で丸10年が経過した。過去に4ヶ国の駐在経験があり、世界60ヶ国以上を巡ってきて、「インドだけは駐在したくない」と言っていた自分であるが、「住めば都」はどこにでも当て嵌まるようだ。さすがに10年の節目を迎えたのは感慨深いものがある。当初の2年間は首都ニューデリーに住みながら、インドの各地を巡っては、現地法人のCOO(副社長)としてインド人社長を補佐し、主に営業活動をしていたのだが、その約2年後、西インドのプネ市に拠点があり、約30年前にインド企業との合弁会社として設立された歴史を持つ製造工場であるSharp India Ltd.の工場長(社長)に指名されたのが2012年12月のことであった。これが運命の分かれ道であったと今にして思う。もし、私がそのままニューデリー駐在を続けていたなら、恐らく2016年3月の60歳の誕生日には定年退職で帰国し、しばらく日本国内をのんびりと旅行したり、今も高校時代の旧友が住んでいる、かつての駐在地でもあるメキシコで何か別の仕事を始めたりしていたかも知れない。しかし運命の悪戯なのか、それとも天命として決まっていたことなのか、2012年12月以来、ずっとこのプネ市に住み、インド企業数社と親日団体のアドバイザーを務め、私立大学の経営学部と大学院で非常勤講師として教鞭を執るなど、好きなことだけをしながら、お蔭様で毎日を楽しく過ごしている。2016年3月に定年を迎えたが、当時の会社の事情もあって嘱託の立場で現職を半年間だけ延長することとなった。その時点で既に私は、定年退職後も当地プネに戻ってくることを決めていた。それは、当地の友人達との固い信頼関係ができたことで、自分の居場所をここに見出したからである。日本とインドとの関係はまだまだ成熟段階にあるとは言い難く、相互理解からして全く不足しているのが実態であることを知ったからでもある。自分ができること、好きなこと、社会が求めていること、それは日本とインドの両国関係の発展に貢献できる、新たなミッションとなることに気付いたからに他ならない。
 プネというこの土地は、正にその新しいミッションを担う拠点としても絶好の場所であった。プネと聞いてもピンと来ないかも知れないが、実はこのプネこそ、日印関係の中心的なハブ都市であると言っても良いと思う。特に当地は日本語教育が盛んで、インドのフリーダムファイター(独立運動家)として名高いLokamanya Tilak氏が設立した私立大学Tilak Maharashtra Vidyapeeth(ティラック・マハラシュトラ大学、略称TMV大学)には日本語学科があり、日本語専攻の学士や修士の資格が取れるインドでは稀有の存在である。その関係で同学には国際交流基金の西インド支部が学内に設置されている。同学と大阪外国語大学(現大阪大学)は古くから提携関係にあり、毎年学生交流がある。また、毎年TMV大学からインド国内で最多の国費留学生(日本語及び日本文化専攻)を日本に送り出していて、日本側の受け入れ大学も大阪大学を始めとして10大学以上を数えると聞く。
 当地の親日家が設立した「プネ印日協会」 はインドの中でも最も古い親日団体の一つであり、日本語教室も併設されている。私は当地に赴いて最初に知り合うことになったインド人(マハラシュトラ人と呼ぶべきだろう)が、このプネ印日協会の創設者の一人、故ラメッシュ・ディベカール氏である。同氏が主幹となりプネで初めての「Japan Week」という日本文化紹介イベントを2013年3月に開催された際には、シャープの大画面テレビやオーディオ機器を貸し出して応援させてもらった。
私が退職後にもプネに戻ってくることを決めたのは、同氏との友情の賜物であったのだが、運命とは時に残酷なものである。私がシャープ(株)を定年退職して、日本に帰国していた半年の間のある日、この私の最愛の親友は病に倒れ生涯を閉じたのである。今日、自分が担っている日印関係の発展のためのミッションの全ては、彼の遺志を継ぐことでもある。
 このプネというインドでは第8番目の大都市と、日本との繋がりについては全く知らなかったのだが、Oxford of the East(東洋のオックスフォード)の異名を持つ学園都市で、デカン高原の入口にあるこの温暖な気候と愛国心に満ちた土地の人々との出会いの中で、この都市の多くの親日家と知り合うに従い、この街と人々との絆が深まっていくことになるが、まさかコロナ禍とロックダウン(都市封鎖)という憂き目に遭うとは全く想定しなかった。

2.いきなりロックダウン

 2020年3月22日、インド政府はコロナ禍が徐々に浸透していく中で、欧米に習い外出禁止令(午前7時から午後9時)を発令した。そしてその日の午後5時になると、何か外から物音がするのでベランダに出てみると、周りの住民が皆ベランダに出て、鍋や釜などの食器を手にカンカンと音を立て始めていた。何が起こったのかと、インド人の友人にスマホで問い合わせると、欧州での事例に習いモディ首相が提唱したらしく、コロナ対策に従事している医者や医療従事者に対する感謝と敬意を表するために、国民全員で一斉に物音を立てるという行事であった。インド全土で一斉に実施されていたようで、各地の多くの友人からもLive Videoがスマホに送られてきた。こういう時のインド人の団結力はたいしたものだが、音を立てるという感覚は日本では全く考えられないことだ。その大音響は5分ほどで収まった。その翌日、インド政府は25日から全国でロックダウン(都市封鎖)を実施することを発表した。当初は3週間の予定であったが、その後数度延長されて最終的には5月末までとなった。ロックダウンとは一体何なのか、さっぱり想像できなかったのだが、周りの友人達によると、どうやら時間限定で外出は許されるが、近所で買い物をすることだけで、仕事に出かけたり友人と会うことはできないとのこと。日常生活必需品、つまり野菜や果物、飲料水などはキラナショップ(インドではどこにもある街中の何でも屋)やスーパーでも買えるが、薬局以外のその他のお店は全て閉店となった。市内の移動も制限され、タクシーのサービスも鉄道やバスなどの公共交通機関も運行が中止された。このロックダウンの最大の被害者が、いわゆるメイドさん(家事手伝い)達である。インドの下層階級に属するこれらメイドさん達は、通常は複数の中流以上の家庭を毎日訪問して、30分から1時間程度の家事サービス(掃除、洗濯、食器洗い、料理など)をして家族を支えている人達であるが、ロックダウンのために、住み込み雇いを除いて、これらメイドさん達の外出ができなくなり、突然に仕事を失うことになったのである。事前の通達なくいきなりのことで、地方から大都市に出稼ぎに来ていたメイドさん達は職を失い、田舎に帰るにも交通手段を奪われ、やむなく何百キロもの遠路を歩いて帰省したという報道を、実は日本の新聞記事で目にしたものだ。また、ロックダウンの当初は街中をバイクや車で移動する人達を取り締まる警官の姿や、お店にマスクもしないで入店する客への指導や、入店前のソーシャル・ディスタンシング、一度に入店する人数を制限するための監視なども、実際には見たことはないが、YouTubeでは目についたものだ。行きつけのスーパーはショッピングモール内に併設されていたが、モールは閉鎖され、スーパーには地下駐車場からのみ入店できる。入口にはセキュリティチェックがあり、体温を瞬時に計るデジタル体温計で係員が一人ひとりの体温をチェック、足でペダルを踏むとちょうど手の高さに設置してあるサニタイザーのスプレイを手で受けて消毒してから入店するという、いかにもインドらしい、お金をかけずに効果が出る道具が設置されていた。困ったのは、そのスーパーの入店規制のため、早朝8時から9時までの間に入口のところに行列を作って並び、順番に入店の時間帯が指定された整理券を受け取る必要があったことだ。つまり入店するためには早朝から出かけて行って列に並び、整理券に指定された時間帯(9時以降午後2時まで)に出直すことになる。これは結構面倒だったのだが、知人の日本人が同じ地区に住んでいて、その人の住居はスーパーに近かったため、私の代わりに整理券を受け取ってもらって、指定された時間にその知人のところに寄って整理券を受け取り、入店するという手間をかけた。当地では運転免許は持っていないし、シャープ(株)の駐在時代とは打って変わって、社用車もドライバーもいない身分であったので、タクシーやオートリキシャ(三輪タクシー)もサービスが停止しているロックダウン下で、この買い物は結構辛いものがあった。その知人も年末にはプネからニューデリーに引っ越して行かれた。もう一人、同じマンション群に住んでいた日本人の知人はその後日本に避難帰国された。これら知人から引っ越しの際に譲り受けた使いかけの醤油などの調味料や余った日本食材が非常に有難かったものである。
 2020年4月11日、ネット新聞の報道では、インドに在住していた約1.1万人の日本人の約半数が既に臨時便で避難帰国しており、約5千名がインドに残留しているとのこと。プネに在住の日本人駐在員と家族は、在ムンバイ日本国総領事館とプネ日本人会の手配で、約120キロ離れたムンバイ空港までのバスをチャーターして集団で移動したという。日本に到着しても、公共交通機関は使用できないという水際作戦が実行されたのもこの時期である。
 2020年4月16日、ヨガの指導をうけていた先生から連絡があり、この日からオンラインでレッスンを受けることになった。以前は先生宅に日曜日の朝に通っていたのだが、コロナ禍になって中止していたもの。オンラインでもヨガのレッスンが受けられることが確認できたので、その後、週二回に増やすことになった。今から思えば、こうして一度も陽性反応になることも無く、コロナにも罹っていないのは、自炊による野菜中心の食事とホームメイドのヨーグルト、そしてヨガが健康維持と免疫力アップに大いに貢献したことを実感している。
 ロックダウンは自分で自炊することを余儀なくされたので、最初はインスタント食品を中心に、少しずつネットのビデオ情報を見ながら習い始め、慣れてくると自炊も楽しいものになっていった。揚げ物は火傷の心配があったので、当初は敬遠していたのだが、ロックダウンが長期化するに従い、自炊のレパートリーも増やさねばと奮起して、あらゆる料理に挑戦していった。魚釣りをしない自分が、鮮魚を丸ごと買ってきて三枚におろすなんてことは、生まれて初めての経験であったが、失敗を重ねながらも大いに楽しんだ。ともかく外食産業は最初のロックダウンから今まで、一時期を除いて開店しておらず、デリバリーサービスのみ可能となったのだが、単身で生活する者としてはこれらのサービスでは量が多過ぎるし、味付けもインド風で濃く、脂っこく、辛く、しょっぱいので、やはり自分で料理するしかないと悟ったのである。実は最もつらかったのは、ロックダウンで酒屋も全て閉店となり、予期していなかったせいで、ビールやワイン、ウイスキーなどの酒類を買い置きしていなかったために3月末には全て飲み尽くしてしまい、6月にロックダウンが解除されるまでの約10週間は完全な禁酒生活を強いられたことである。その後もロックダウンがON/OFFを繰り返す度に、ビールやウイスキーなどの酒類を買い溜めするようになり、何とか凌いできた。
 2020年4月24日、どうやら、昨日からラマダン(イスラム教の断食月)に入ったらしい。暑い時期で、ロックダウン中のラマダンはさぞ辛かろうと思う。ラマダンといえば思い出すのが、あのミネラルが豊富な砂漠の栄養源、デーツ(ナツメヤシの実を干したもの) 。スーパーで半額セールしていたのを見つけたら、なんと1kgで約330円!原産地はイラクとある。今ごろは暑い最中、唯一神アッラーに帰依する修行と心得て有り難く断食を行うイラクの人達を想う。それにしてもこのデーツの芳ばしく甘い味わいは一度味わうと病み付きになってしまう。遠い昔、サウジアラビアで体験した本場のラマダンを思い出しながら、もうひとつ摘まんでいた。
 2020年5月7日、なんと、体重が65kgを切った!何年も目標としていたのだが、こんなに簡単に僅か2ヶ月足らずで減量できたことに驚いた。自炊とヨガと禁酒のお蔭である。(禁酒が解けてから、現在はまた少し増えてきているのが悩ましいところではあるが。)

 

 (本稿は関西日印文化協会が2021年8月15日発刊予定の「日印文化」インド共和国第75回独立記念特集号への寄稿文の元となる記録の全文を、同協会の了承の下、一部加筆修正して連載するものです。)

 

磯貝富夫プロフィール

 1956年兵庫県尼崎市出身。1979年京都外国語大学卒、同年シャープ(株)入社。2016年シャープ(株)を定年退職するまで37年間に亘りグローバルビジネスに携わり、海外生活は延べ28年。現在は西インド、プネ市在住でインド滞在は11年目。日印関係フリーランスアドバイザーとして、インド企業のアドバイザー業務に携わり、プネ市の私立大学経営学部で非常勤講師として教鞭を執りながら、日本語と日本文化の教育振興にも貢献している。日印の将来の発展を目指して若者間の交流促進に最も注力し、東京大学インド事務所主管の留学生誘致活動である「留学コーディネーター委員会」のメンバーを務めている。今年4月から親日NPO団体であるIJBC(Indo-Japan Business Council)の顧問に就任。

更新日:2021.08.19