「河野亮仙の天竺舞技宇儀54」

玄奘三蔵西域記~その三/貞観のG、百億円プロジェクト

インド宗教の大元はヴェーダ。そして、ウパニシャッドの思想家達によってバラモン教、仏教の基礎が築かれた。そこにはヨーガの萌芽もある。バラモン教と言うだけあって、どうしてもバラモン中心、カーストの壁を破る事が難しい。

当時、カーストという言葉はなかったが、ブラーフマナ、王族クシャトリヤの下に置かれ、ヴァイシャとされたインドの商人、インドのカースト社会に住んでいない異民族の商人たちにとって、仏教は入りやすい宗教であった。紀元前後から西ローマ帝国が滅びる5世紀頃にかけて、インドの商人たちはローマ世界との貿易で財をなし、仏教をサポートした。

前1世紀から3世紀までの西インドの石窟院における寄進銘文には、「功徳のため」、「両親の供養のため」、そして、家族、あるいは一切衆生のために利益や安寧を祈っている。

6世紀中葉になるとインド文化の基礎を築いたグプタ朝が崩壊する。中央の貴族やバラモン、商人達も都落ちというのか、南に下りそれぞれの地方文化、村落社会の影響を受けて融合し、新たな宗教文化が生まれてくる。商人を守護者とした非アーリヤ系の仏教、ジャイナ教が衰え、農村を基盤としたヒンドゥー教の勢力が強まる。

仏教の方はというと、今日のアフガニスタンに相当する地域で、模様替えが起こり、東方へ中国へと伝播する準備が出来てくる。北方からアフガニスタン・インド方面に進入してきたギリシア、サカ、パルティア、大月氏等諸民族はインドに土着して混じり合い、仏教を自分なりに受け入れる。人種のるつぼに新しい文化が生まれる。仏教の方も異民族を受け入れる事によってインド固有の宗教から脱皮し、また、仏教自身もヒンドゥー化して釈尊の仏教から大乗仏教へと姿を変えていく。

『法顕伝』『西域記』に見るように、釈尊やその弟子が訪ねたとされる聖跡や、その聖なる遺品、仏歯、髪、爪、頂骨、袈裟、錫杖等、目に見える、直接触れる事物が求められた。さらに、ヘレニズムの影響を受けて仏像が作成されるようになった。

 

外道とは俺の事かとヒンドゥー言い

インド入りする直前のカーピシーで玄奘は外道について記す。仏典において古くは六師外道が知られる。インドの正統であるバラモン教から見れば仏教こそが外道なのだが。大きくヒンドゥーとして捉えられる中にも正統ではない俗信が少なからずある。

カーピシー王は仏教徒であって十数国を統べる。毎年、一丈八尺の銀の仏像を造り、かねてから無遮大会を行って、修行者のみならず、貧民、身寄りのない者にまで恵み施す。この地はカーブルの北東にあり、二つの川の合流地点サンガムなので、聖地とされているようだ。

天祠は数十カ所、異道は千余人いる。玄奘は仏教寺院を伽藍とし、神を祀る寺を天祠と記す。異道と外道とどう区別しているのか判然としないが、ゾロアスター教やマニ教も含まれるようだ。ある者は裸形、またある者は灰を身体に塗りたくり、またある者は髑髏を連ねて冠の飾りにしている。

『西域記』第二巻の始めにインド総論があり、外道の服装について述べる。孔雀の羽を着たり、髑髏の瓔珞を飾ったり、裸形だったり、髪を抜いたり、草や板で身体を覆ったり、髪はばさばさだったり、髷を結ったりとパンクな奴等がいる。果ては糞まみれの服を着て大小便を飲み食いし、臭くて汚らしいジュティカの輩もいる。そんなのは修行でも苦行でもなく愚行であると玄奘は理解している。

 

いよいよインドの旅

さて、山賊に襲われ身ぐるみ剥がされた玄奘一行はタッカ国で食べ物や布の布施を受ける。町の檀那衆300余人が、それぞれ一反ずつ綿布を持ってきたという。パキスタンのシャールコット州、インド側パンジャーブ地方の国境近くでの出来事だ。一行に配布してもなお余ったので、近郊のマンゴー林に住む、名はナーガルジュナ、年は700歳と称す老婆羅門に5反布施し、一ヶ月ほど種々の経典、『中論』などを読んでもらう。

布施という字に布が入っているが、特に絹布の施しは、高額紙幣に相当する。子安貝、タカラガイは広く通貨として使われた。宋銭、銅貨は平清盛の時代に日本に大量に輸入された。

パンジャーブに入るとチーナブクティ国の寺院で14ヶ月学んだ。ジャランダラ国、クルータ国へ。ヒマラヤを望む事が出来た。南下してシャタドル国、西南にパーリヤートラ国。ここに至ると中インドである。

アビダルマ学派の徒は舎利弗の塔を供養し、小乗の徒は目乾連を、経典派はトラヤニープトラを、ヴィナヤ派はウパーリを、尼僧は阿難を、大乗を学ぶ者はすべての菩薩を、というようにそれぞれ供養する。

今度はヤムナー川沿いに北上してシュルグナ国、その間に今日インドの首都デリーがある。シュルグナには仏寺が5つ、僧徒が千余人いるので、玄奘はここでも5ヶ月学ぶ。

シュルグナからガンジス川の東方を南下し、カニヤークブジャ(カナウジ)に至る。王の戒日王、ハルシャヴァルダナ=シーラーディティヤには、この時出会わなかった。城内には伽藍が百余、僧徒は万余、大乗、小乗共に学ぶと記す。

カニヤークブジャから東南へ六百余里、ガンジス川を渡った南岸のアヨーディヤー国に至る。ヒンドゥー教徒にとってはラーマの物語の故地である。寺院は百余、僧侶は数千人、大乗、小乗共に学ぶと記す。

 

ドゥルガー信者の生け贄となるか?

玄奘三蔵はアヨーディヤー国の聖跡を拝した後、80人余りとガンジス川を東に下った。その時、両岸から十数隻の賊船に襲われる。彼らはドゥルガー神を信奉して、毎年、秋になると風采の端麗な人を探して、その血と肉を捧げる風習があった。ドゥルガー・プージャーも昔は人肉を捧げていたのだ。この辺から西遊記の高僧を食べるという話につながる。

玄奘は身を捧げるジャータカの話のように、「それで神の祭りに役に立つというなら命も惜しくない。しかし、私は唐からやって来て、霊鷲山を礼拝し、経典を集め仏法を学ぶために来た。まだ、志も果たしていないうちに殺しては、そなた達にも良い報いはなかろう」と言う。

そして、弥勒菩薩に祈り、心を兜率天に馳せる。にわかに黒い雲が出て嵐となり、船は転覆した。天の神の怒りだ。はやく懺悔しろと乗り合わせた者が口々に言う。賊は驚いてもういたしませんと懺悔し、武器は川の中に投げ入れて、奪い取った品々は持ち主に返した。盗賊達は三蔵から五戒を受けて礼拝して別れた。

中インドの行程は『西域記』には記されず、『慈恩伝』に記されるものの、足取りは余りはっきりしない。高僧伝というのも弔辞や結婚式の祝辞のように、美辞麗句を連ねて讃えるものであるが、余りに出来過ぎで伝記的というより伝奇的だ。また、旅の守り神としていつも観音菩薩に祈っていたのに、この時ばかりは弥勒菩薩に祈ったのはどういう意味なのか。

訳場での聞き取りとして『慈恩伝』の元を慧立(えりゅう)が記したのだろうが、序文は688年付、死後24年に提出している。事情があったようだ。

中野美代子によると、兜率天というのは西遊記において、道教風に太上老君、すなわち老子の住まいであって、孫悟空はしばしば觔斗雲に乗ってひょいと訪れている。法相宗の鼻祖は弥勒菩薩とされるので、『慈恩伝』の著者・編纂者である慧立、彦悰(げんそう)がこの逸話を忍び込ませたのかもしれない。

「一天にわかにかきくもり、黒風が起きて木をなぎ倒し、砂を飛ばし、川面に波がわき立つ」というのは、西遊記において三蔵が妖怪にさらわれる時のパターンである。

 

無遮大会

さてさて、玄奘一行はプラヤーガ国、今日のアラハーバードに着いた。ガンジスとヤムナーが合流する聖地である。ここには広々とした砂原があって大施場と呼ばれ、昔から王侯貴族が施しをする場所であった。戒日王も無遮大会を行う。5年ごとに財を積み、75日にわたって、仏法僧へ、そして、際限なく乞食に至るまで大布施を行うものだ。

川の合流点で溺死すると天に生まれ変わると言われるので、河原に集まり七日間絶食した上、水中に身を投げる者が、毎日、数百人いると言われた。

また、苦行者が水中に柱を建てて、まだ日の差さぬうちによじ登り、片方の手と足で柱にしがみついて目を日輪に注ぎ、太陽が回る方向に身体を向け、日が落ちると柱を降りるという。そんな苦行者が川の中に数十人いる。ブラヤーガはヒンドゥーの地で仏寺はただの二つと記す。

無遮大会が今日のクンブメーラーにつながるのかもしれないが、このクンブメーラーという祭りも規模が大きすぎて、何でもありなのでよく分からない。ただのフルチン行者の行進ではない。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%A9
https://www.youtube.com/watch?v=1UFBxxNjzdc

 

仏跡巡礼

そこから西南に進み、猛獣、巨象がいる大森林を500余里進むとカウシャンビーに至る。さらに、東方に500里、ヴィシャカ国に着く。そこから東北に500余里、かつてのコーサラ国の舎衛城、シュラーヴァスティーに到着する。祇園精舎のあった地である。

もはや廃れたジェータヴァナ(給孤独園)や、かつて提婆達多が釈尊を毒殺しようとした故地等を訪れ、東南へ800余里で釈迦族の王城カピラヴァストゥへ。こちらも荒れ果てていた。さらに、釈尊が涅槃に入ったクシナガルに入る。ひどく荒れ果てていた。

大きな林を抜けるとヴァーラーナシーに到着。ここには伽藍が30余、僧は2000人、小乗一切有部を学んでいた。東北へ10余里行くとサールナート、鹿野園に着く。初転法輪の地である。僧は1500人、小乗正量部を学んでいた。三蔵はアショーカ柱に言及する。

ヴァイシャーリーに進む。マンゴーやバナナがよく育つが都城は荒れ果て住民は甚だ少ないと記す。100余里でシュヴェータプラ城に、南方へガンジス川を渡るとマガダ国(パトナーとガヤーを中心とする)に着く。伽藍は50余り、僧侶は一万余人。

 

ナーランダー大学

やがて、ブッダカヤーに到着。尼連禅河が流れている。釈尊が瞑想した菩提樹、金剛座を拝する。国を出て3年、ようやくナーランダー寺に入る事ができた。200人の僧侶、千人の信者と旗や日傘、香華で出迎えられ、特別待遇だった。戒賢(シーラバドラ)法師に師事して『瑜伽論』を学ぶ。

油や米、バターなど様々な物が支給され、キンマの葉や檳榔樹の実まで供されたが、玄奘はパーンを嗜んだのだろうか。私は苦手だった。浄人一人と婆羅門一人が当てられたが、婆羅門の役どころは何なのだろう。コックかマッサージ師、コンシェルジェに相当するか、あるいはサンスクリットやヴェーダ学の家庭教師か。浄人とは清掃人というか、単に出家ではなく寺に仕える人の事か、あるいは、門番、ボディガードも兼ねるのだろうか。雑用など僧の務め、諸役は免除された。そのような待遇を受けるのは10人のみである。

ナーランダー大学とも呼ばれるように、ここは客僧も入れて一万人、毎日、百カ所余で講座が開かれている。共に大乗を学び、小乗18部も見学している。のみならず、ヴェーダ学、因明、声明(音韻学)、梵語文法、医方、数学など科学を学ぶ。俗典というのは、六師外道の外典なのか、マハーバーラタやカーリダーサなどの文学の事か。何々学部というように組織はされていないが、多言語多民族のインドなので、おそらくは地方語ごとの集団で教育され、外国人にはそれに適した学舎があったのではないか。玄奘はここで5年間学ぶ。35歳になった。

国王もこの寺を敬い、百余の村を荘園としてその供養に当てている。荘園の200戸から、毎日、米や乳が供されるので、学人は乞食に出ないで芸業を成就させる事ができる。玄奘も安心して王舎城や霊鷲山などの聖跡を訪れる事ができた。

ナーランダーからイーリナパルヴァタ国に行く。伽藍十カ所、僧は4000人余り、小乗の説一切有部を学んでいた。玄奘はここにも一年滞在して学ぶ。

イーリナ国からガンジス川の南岸に沿って東へ行くとチャンパー国。伽藍は十カ所、僧侶は200余人で小乗を学ぶ。国境の南側には大きなジャングルがあり、野生の象数百頭が生息している。イーリナ、チャンパーには象の軍隊が多い。このジャングルにはオオカミ、サイ、黒豹が多く、人は近づかないのだが、象の調教師は入って象を捕まえ訓練して乗用に使う。南へ進み諸国を漫遊し、聖跡を拝しドラヴィダ国カンチー城に至り、シンハラ島を望む。現スリランカに渡って学ぶ事を希望していたが、国王が亡くなり、飢饉もあって高僧は何十人もインド側に亡命してきたところだった。

さらに南インドから西インドの報告があるが、アジャンタ・エローラ、サーンチーには行ったのだろうか。4年程巡礼して、再びナーランダーに戻る。

ある時、ローカーヤタ派に属す外道がナーランダーにやって来て論戦を挑むが、ことごとく打ち破る。このバラモンが『破大乗論』を知っているというので講義させる。玄奘はそれを聴いて誤った所を指摘し、『破悪見論』1600頌を作り上げたという。このバラモンは議論に負けて、玄奘の奴僕になったのであるが、自由にする、好きな所へ行きなさいと言った。

バラモンは歓喜して辞去し、カーマルーパ国(アッサム)のクマーラ王の元に行き、玄奘三蔵の徳の高い事を語る。王はそれを聞いて悦び、使いを出して三蔵の来遊を要請した。

 

帰途に着く

クマーラ王の使いが来る前の事、裸形派のジャイナ教徒が玄奘三蔵の前にやって来たので占ってもらう。ジャイナ教徒は卜占に巧みであるとされる。

「インドにこのままいるのが一番良いが、無事に帰国できます。戒日王とクマーラ王が法師の元に使いを送って援助してくれるでしょう」

この話も出来過ぎなので、おそらくは帰国に向けて下交渉を始めていたという事を示す。往路でも紹介状を書いてもらって旅行費を頂戴した。有力者に頼らない限り、一人身で帰国するならともかく、大量の仏典等の荷物をキャラバンを組んで運び出す事はできない。論争に破れた形のバラモンも、役目はクマーラ王への使いだったのかもしれない。中国から来た高僧マハーヤーナデーヴァ(インドでの呼び名)が帰国するらしいという噂は、宗教、宗派を越えた修行者ネットワークによってインド中に広まったのだろう。それを聞いて自由に王室でも寺院でも出入りできる修行者、時には王の占い師、助言者ともなりえるヴァジュラという名の行者が占いというか、仲介、相談、本音を聞き出すために送り込まれたのだろう。

ナーランダの戒賢法師の元にクマーラ王から使いが再三来るのだが、玄奘三蔵は戒日王の元で小乗の学徒と論争する事になっていると断り続ける。しかし、派遣してくれないのなら象軍を送ってナーランダー寺院を破壊すると脅してきたので送り込む事にする。

そうなると今度は、戒日王がこちらこそ先約と言ってクマーラ王を叱責する。「申し訳ない、私の首を差し上げます」といって詫びる。

クマーラ王は反省して象軍二万、乗船三万を整えてガンジス川を渡って玄奘三蔵と共に戒日王の元に向かう。この数字も百倍位誇張している感じだ。戒日王は僧侶20人と共に出迎える。

戒日王との会見は貞観14(640)年、玄奘39歳の事と思われる。『新唐書』中天竺国伝に記される。「この事が動機となって、戒日王と唐の太宗との交際が始まったと記してある」と前嶋信次は『玄奘三蔵』p129に書いている。「貞観15年摩伽陀王と称し、使者を遣わして上表する」と記されるが玄奘三蔵の帰国は19年。一体、戒日王との交渉はどのように始まったのだろうか。わずかに漏れ伝わったこの亀茲以外、玄奘の周辺と太宗の間の関係を伝えるものはないが、絶えず連絡を取りあっていたのではないか。そのルートも問題だが。私だったら二重三重に別ルートで使者を送るが。

太宗も正使李義表、副使王玄策ら22人を送って、貞観17年に目的地に達し翌年帰国している。貞観20(646)年には王玄策を正使として、30騎を付けて2回目の使節を送った。『法苑珠林』には、王玄策が高宗の顕慶2(657)年にネパールを通って仏袈裟を贈った事が見える。彼らはチベット、ネパールを経由したと思われる。人と共に文物が行き交っている。王玄策は色川大吉の言うところの第三のシルクロードを切り開く役目を担ったのではないか。

 

大討論会

玄奘の『破悪見論』に感服して、カニヤークブジャで大会を開く事にする。全インドから沙門、バラモン、外道を集合させて、大乗が正しいという事を示したいと考えた。18国の王がやって来て、大乗小乗の僧3000余人、バラモン、ジャイナ教徒、外道2000余人、ナーランダー寺院からも千余人がやって来るのだ。

王は予め二つの草葺きの大会場を作らせ、一つに千余人が座る事ができた。戒日王は帝釈天の姿に扮し、クマーラ王は梵天となった。法師等も象に乗って王の後に従った。さらに300頭の象に諸国の王、大臣、大徳が乗って王の行宮から会場に向かう。王は会場の内外の人すべてに食事を振る舞い、玄奘三蔵や諸大徳に布施をする。『破悪見論』を示した。会期の18日を過ぎても三蔵を論破する者は出なかった。戒日王は金銭一万、銀銭三万、毛織りの衣服百着を玄奘に布施し、18王も各珍宝を施したのだが、玄奘は受け取らなかった。

18日間に亘る大討論会の間には、舌鋒鋭い玄奘を暗殺しようという計画まであったようだ。法会に参じた500人のバラモンが仏教徒ばかり優遇されていると不審火を起こしたり、刺客を送って王に襲いかかるように仕向けたりとなかなか物騒な事件もあった。なんとか無事に終えると王に帰国を申し出る。

しかし、さらに押しとどめて、プラヤーガ国(現アラーハーバード)で5年に一度の75日の無遮大会を行って皆に布施すると告げる。30年近い在位の間6回目の大会である。ガンガーとヤムナーが合流する所に大施場がある。

 

プラヤーガの無遮大会

四方各々千歩、草葺き屋根の宝庫を造り、その前に長屋百余件を建てる。それぞれ千人余を収容できる。予め、全インドの沙門、ジャイナの修行者、外道(それ以外のヒンドゥーの行者)、困窮者、孤独者に施場に集まるよう告げた。18王も含めカニヤークブジャ(カナウジ)から、直接、こちらに回る者も多い。

戒日王とクマーラ王は軍船に乗り、バッタ王は象軍を従え、18国の諸王も陪席した。初日は施場の草殿に仏像等を安置し、宝物や上等な衣類、飲食物を供え、楽を奏し散華する。2日目はスーリヤの像を安置して初日の半分の宝や衣を施した。3日目は自在天の像を安置して日天と同じように供養する。4日目は僧侶に供養する日で一万人が百列に並び、それぞれ金銭百枚、飲食等を供養する。5日目」はバラモンへの施しで20余日で悉く供養する。6日目には十日間外道に供養する。7日目は遠くから求めて来た者に施し、8日目は貧者、孤独の者に施し、一ヶ月で供養し終わった。

こうして5年の間に蓄積した富を放出し、軍の象や馬、武器は別として、王の衣類、宝石等すべて施し、王は粗末な破衣を妹からもらって着て、十方の仏に礼拝し、歓喜して合掌する。すると諸王は宝物、金銭を持って民衆の所に行き、王が施した瓔珞等アクセサリー、衣服を買い戻し、持ち帰って王に献じた。数日後には王の宝石や服飾品は王の元に戻る事になる。

 

天山北路で帰る

戒日王はさらに引き留めた。玄奘はアッサム方面に行ったのでミャンマーから雲南に抜け蜀(四川省)に至る帰国路も検討した。2ヶ月で中国に行けるのだが、これもまた道が険しいというか、狭くて道なき道なので大キャラバンを組んで大量の経典を持ち帰る事はできない。高昌国で配慮してもらったおかげで天竺に入れたので、約束通り高昌国に戻って王にお礼を言わないといけない。北路を戻る事を告げる。

経典と仏像をウディタ王の軍に託し、玄奘三蔵は象に乗って進むことになったと格好良さそうに記されるが、実際は経典を積んだ方が効率が良い。玄奘は布施を受け取らず、クマーラ王の施物のなかの動物の毛の雨合羽のみ受けたとされる。戒日王は受け取らない玄奘の代わりに、ウディタ王に大象一頭、金銭三千、銀銭一万を旅費として与えた。紹介状も付けて国の境まで送り届けた。

プラヤーガ国から西南に大ジャングルの中を7日行くとカウシャーンビー国に。ヴィラシャーナ国を経て、シンハプラ国に。ここには百余人の僧がいて、北方の人だったので経像を持って玄奘と共に帰国する事になった。また20余日山道を行く。山賊の多い所なので、一人の僧を先に行かせ、「我々は中国から来た者で、持ってるのは経や像や舎利です。でき心を起こさないで下さい」と言うと害を受けなかった。

実際には、王の軍隊と言わないまでも精鋭がボディガードに控えているので、事を起こさない方が賢明ですぜと交渉したのだろう。このようにして20日余り行くとタクシャシラーに。さらに西北に進みシンドゥ川を渡る。玄奘は象に乗る。象は水陸両用車である。経蔵と同行の人々は船に乗ったが、風が起こり船が揺れ、経50巻を落とした。

その時、カーピシー王は三蔵が来ている事を知って城を出て河岸で出迎え、共に都城に帰った。人をウディヤーナに使わして経典を求めた。また、クスタナ国(コータン)からもクチャとカシュガルに送って経を求めたのだった。

王は三蔵を送って西北に進みランパーカ国国境に。王子を使わして出迎えるように命じると幟や幢を立てて道俗数千人が出迎え、三蔵を見て歓喜し礼拝した。大乗寺に泊まり、王はここで75日の無遮大会を行った。また、カーピシーの国境に至るとここでも、7日間の無遮大会を行った。

グローサパム城でカーピシー王と別れて北に進んだが、王は大臣一人に百人余を付けて食料やまぐさを背負わせ、雪山を越え7日で山の頂に着く。道が険しく、もう、馬にも乗れず、杖をついて歩く。雪渓や氷河で村人の案内がなければ谷底に落ちてしまうような険峻な道だ。

その時の一行は、僧7人、人夫など20余人、象一頭、ラバ十頭、馬4頭と『慈恩伝』に記されているが、よく象が通れたものだ。それとも象は木をなぎ倒して道を切り開く係、クレーン車であり、トラクターという事か。

繰り返し言うが、経典とは印刷された経本ではなく、椰子の葉に書いて束ねた物だ。大般若経六百巻だけでもラバ十頭に乗り切れないのではないか思うのだが。ナーランダーを出る時に持っていた経典、仏像は、戒日王の無遮大会に参加したウディタ王の軍に委託したとの記述もあるので別便で運び、補填分だけ持参したのか。いずれにしても容易な事ではない。

山を下りてようやくクンドゥスに至るとヤブグ・カーン(統葉護可汗)の孫に会ったトカラの王となっていた。高昌国は滅亡し麹文泰も亡くなっていた。

クスタナ(コータン)では国王が引き留めるのでしばらく滞在し、太宗に上表文を書いて高昌の少年にキャラバンと一緒に入朝させた。貞観3年に国禁を破り密かに経典を求め仏跡に詣でるため天竺に行ったと事情を述べて許しを請うた。太宗はコータンなどの沿道諸国に勅して玄奘三蔵を送るよう命じ、クーリーも駅馬も不足しないように配慮させ歓迎した。

 

タフな交渉

貞観19年2月1日に二人は初めて相見えたのだろうか。長安に着いてからの歓迎パレードでは、馬22頭に経典を積んで行進したというが、請来品はそれだけのみならず、別便もあっただろう。太宗は玄奘に還俗して王の片腕として働いてくれるよう、再三、要請したが、固持して訳経を行いたいと希望する。勅命によって公給で大規模に翻訳事業を進める事ができたが、しばしば、皇帝からお呼びが掛かり、翻訳に専念できない時期もあった。

建前上、密出国とはいえ、玄奘の企ては国家プロジェクトの規模だった。出発前に玄奘は上表したものの、直接に太宗と接触したと記すものはない。お役所仕事で書類が上まで上がらなかった事が考えられる。また、仮に勅命での西域調査行という事が知れたら、暗殺されかねない。表向きは巡礼行とした方が、まだ、安全だ。

玄奘三蔵は高昌国麹文泰の死も西突厥ヤブグ・カーンの死も知っていたのではないか。それでもなおかつ北回りで行ったのは太宗からの依頼で、その後の西域情報を入手して分析するためだ。二人は出発前から帰国後に至るまでタフな交渉をし続けていたのではないかという気がする。

第50回で空海の留学費用、写経と仏像、仏舎利、曼荼羅制作費は十億円になるのではと推測した。遣唐使は国家プロジェクトだが、玄奘の「一人西域使」あるいは「天竺使」としての活動、取経と学習、巡礼、西域調査のスケールは、ざっと、空海の十倍以上。費用は今でいうと百億円、百人で完遂するような規模のプロジェクトだったのではないか。それを一人でやり遂げたのだから古今東西の文明史上で希有な事である。一人で軍隊百人に相当する力があるというゴルゴ13ならぬ「貞観のG」である。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%8a%bf/

そして、太宗の命で西域についての報告書『大唐西域記』を仕上げ、貞観20年に奏呈すると共に、国家プロジェクトとして訳経を続けるのだった。今、玄奘三蔵の頂骨はさいたま市岩槻区の慈恩寺に納められ、そこから分骨する形で奈良の薬師寺に祀られている。

 

余談/ゲンジョーとは俺の事かと玄奘言い
一般にはげんじょうさんぞうと読まれているが、前嶋信次による先駆的な『玄奘三蔵』よるとゲンゾウと仮名を振る。奘という漢字にジョウという読みはない。蔵と同じ発音のはずだ。ジョウと読ませるのは玄奘だけである。

唐宋音時代の音韻書によると古音はソウではないかという。ツォと推定する人もいる。玄もケンに近いというからケンソウと呼ばれたのかもしれない。また、ギェンザンとする人、奘をズンと想定する学者もいる。玄奘の読みも遣唐使達がどう呼んだのか、当時は新羅の学者、僧侶が多かったので朝鮮訛りの読み方なのか不明である。ただ、ゲンゾウサンゾウは意外と発音しにくいので、滑舌が悪いとゲンジョーサンゾーと訛るのかもしれない。

※ 参考文献については前回に記した。

 

参考文献

慧立他著長澤和訳『玄奘三蔵/大唐大慈恩寺三蔵法師伝』光風社出版、1988年。
桑原正進・袴谷憲昭『玄奘』大蔵出版、1981年。
佐久間範秀・近本謙介・本井牧子『玄奘三蔵/新たなる玄奘像をもとめて』勉誠出版、2021年。
佐保田鶴治『般若心経の真実』人文書院、1982年。
中野美代子『三蔵法師』集英社、1986年。
中村元・紀野一義『般若心経 金剛般若経』ワイド版岩波書店、2001年。
前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』岩波新書、2010年。

 

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2022.08.09