河野亮仙の天竺舞技宇儀⑭
デーヴァダーシーのバーラサラスヴァティーはアメリカで活躍
第二回の続きをマクラにすると、小泉文夫は昭和四十二年七月、貯金を全部下ろして渡米する。行き先は、東海岸コネチカット州のウェスリアン大学である。残された奥様は大変不安だったそうだ。しかし、民族音楽学の客員准教授としての給与は日本とは比べものにならないほど良かったのだ。
当時、日本人は民族音楽学の柘植元一、尺八の山口五郎、琴の鳥居名美野らがいた。昭和四十六年に、小泉は客員教授として迎えられ再渡米する。
私たち小泉チルドレンは、NHKFMの「世界の民族音楽」を聞いていた。そこでも使われていたレコード、K.V.ナラヤナスワミー「インド/瞑想」を聞いて、世の中には変な音楽があるものだと思ったものだ。
南インド古典声楽のK.V.ナラヤナスワミーは、ウェスリアン大学に昭和四十(1965)年から客員演奏家として招かれているので、小泉と出会ったと思われる。ノンサッチ・レーベルは大学に招かれた演奏家の録音もしていた。ここに参加しているバイオリンのV.V.スブラマニヤムは、デーヴァダーシーの家系の歌手M.S.スッブラクシュミーの伴奏者として知られている。
https://www.youtube.com/watch?v=AVoHlghb0CM
ライナーノーツは民族音楽学のロバート・ブラウンが書いている。ブラウンは61年、ウェスリアン大学に職を得ると、翌62年、デーヴァダーシー出身の舞踊家バーラサラスヴァティーを大学に招く。以降、バーラとその親族はここを拠点とし、様々な大学やフェスティバルに招かれてバラタナーティヤムを教え、演奏活動をしている。
実は、バーラは1961年に”East-West Encounter in Tokyo”で来日して、アリ・アクバル・カーン、ダーガル兄弟、カタカリ舞踊団など共に東京文化会館に出演している。それが国際的に認められる契機になったと思われる。このイベントはロシアのミンスク出身で、アメリカに渡った作曲家ニコラス・ノボコフによって企画された。複雑な経歴を持つが、1951年より、文化自由会議の事務局長として。芸術関係のイベントを開催し、出版を行った。この61年のコンサートの記録も出版されている。
67年、バーラはハリウッドボウルのコンサートに、ラヴィ・シャンカル、アリ・アクバル・カーン、ビスミラ・ハーンと共に出演している。モンタレー・ポップ・フェスティバルの年だ。
サタジット・レイによるバーラサラスヴァティーの記録映画もYouTubeで見ることが出来る。
https://www.youtube.com/watch?v=ak_a1RJ2DZc
アニルッダ・ナイトによるドキュメンタリーは以下のごとく。
https://www.youtube.com/watch?v=ibSmDqm-k3o
国立民族博物館教授の寺田吉孝は、ワシントン大学に留学し、タンジョール・ブリンダにヴィーナーと声楽を習っている。ブリンダはバーラサラスヴァティーの従姉妹に当たる。伝統的な音楽舞踊の名門である。ブリンダの弟ランガナーダンは、両面太鼓のムリダンガムをウェスリアン大学で教える。その弟子であったダグラス・ナイトはブリンダが帰国した後ワシントン大学に客員教授としてやってくる。バーラサラスヴァティーの娘ラクシュミーと結婚し、ファミリーになってしまった。
寺田が南インドに留学し、ダブル・リードの楽器ナーガスワラムを習いながら調査したフィールド・ワークは『音楽からインド社会を知る』に結実した。ナイトは”Balasarasvati”という大著を著した。
バーラの家系は十八世紀からタンジョール宮廷に仕えていた名門である。イサイ・ヴェッラーラルといわれる音楽奏者のカーストの女がデーヴァダーシーと説明される。男は演奏者となる。
日本の中世・江戸期には、当道座といって盲人の組織が琵琶を演奏したり、按摩や鍼灸をする権利を得て生活の糧としたように、特定カーストの者だけが南インド寺院の祭礼で演奏をすることが出来た。
デーヴァダーシーの起源
前回に書いたように、二十世紀に入ると風紀を乱すとして廃止された。デーヴァ、神に仕える下僕ダーサの女性形ダーシーである。ハヌマーンはラーマのダーサ、ラーマに命を捧げるという意味だ。
奈良時代の日本でも伎楽や腰鼓の楽士は楽戸(律令制の中で楽を伝習する家。課役を免除される代わりに歌舞などで奉仕する戸)の者から選ばれた。
高級娼婦であるガニカーの存在は戯曲などにも登場してよく知られているが、デーヴァダーシーの起源については例によってはっきり分からない。上村勝彦訳『実利論(上)』(岩波文庫)第二十七章の二十八、二十九には次のような記述がある。
歌・器楽・舞踊・演劇・文字・絵画・琵琶(ヴィーナー)・笛・太鼓・読心術・香や花環を作ること・会話術・マッサージ・遊女の手管など、技術に関する知識を、遊女や奴隷女や舞台で生活する女たちに教える者には、国庫から生活費を支給すべきである。
彼等は遊女の息子たちを、舞台で生活する者たちと一切の舞踊家たちの指導者に仕立て上げるべきである。
舞台といっても、大きな舞台といったら、王宮と寺院しか考えられない。読みようによっては、奴隷女とされる存在がデーヴァダーシーに相当するのかもしれないし、遊女とダーシーの境界というのもフリーランスか、所属寺院があるかの違いかもしれない。
また、ナットゥヴァナールと呼ばれる南インドの舞踊の指導者が、イサイ・ヴェーラーラルの家系に属し、その家の男が演奏家に、ナットゥヴァナールに育っていくのと似ている。また、この「実利論」自体の成立年代も、紀元前二世紀から紀元二世紀の間とされるが、はっきり分からない。
一番大事なもの
王様が神様を信奉するあまり、自分の一番大切のものを捧げようとする。一番大切な自分の命を差し出すわけには行かないので、后、あるいは娘をその寺院に奉納した。持参金というか、娘の食い扶持として土地も与えたかもしれない。妻も娘も、何人も何十人もいたのではないか。ケーララ王クラシェーカラ・ペルマールは自分の娘をシュリーランガム寺院に捧げたとされる。
また、クラシェーカラ・ヴァルマン王の頃(900年前後か)にサンスクリット語劇クーリヤーッタムが成立したとされる。クーリヤーッタムはケーララ独自のカースト、チャーキヤールという家系の男が役者となり、ナンビヤールの女が女優、男が打楽器の演奏者になる。王に付属する寺院の劇場クータムバラで舞踊劇を奉納するのが役目である。
娯楽というより、とても儀礼性が高いので尊敬される。起源は別であるが、職能としてはデーヴァダーシーの家系に近似している。
バナーラス・ヒンドゥー大学に留学中、国際サンスクリット学会があり、クーリヤーッタムやヤクシャガーナが上演された。学会に参加していたサンスクリット学者、ブラーマンがマニ・マーダヴァ・チャーキヤールにひれ伏して尊敬を表していた。ブラーマンに準じる家系、ハイ・カーストとされる。チャーキヤールもナンビヤールもアムバラヴァーシーというケーララ独自の寺院(アムバラ)に付随するカーストだ。
チャーキヤールの出自については次のように語られる。インドのカーストではアヌローマといって、男がブラーマンでそれより下のクシャトリヤの女と結婚する場合は許容されるがその反対は忌避される。
ケーララで最高位のナンブーディリというブラーマンの女と庶民のナイル・カーストの男の密通によって妊娠すると問題である。裁きによってカーストから追放される。しかし、その裁きが出る前に生まれた身分の決しがたい子は、男は俳優チャーキヤールになり、女は女優になったという伝説がある。
実際、それでは俳優のなり手が少なかろう。寺院に付属して音楽舞踊で奉仕する者がカースト化するという点でデーヴァダーシーの家系と共通する。
現今では寺院での朝夕のお勤め、アールティーには男の器楽奏者が演奏する。インドを訪ねた人は、しばしばそういう場面に出会ったことであろう。
昔は、寺院付きの芸能者であるデーヴァダーシーがその役、朝夕に音楽と舞いを奉納するお勤めをした。処女の間は太鼓で踊りの伴奏をしたといわれる。アランゲットラムを済ませると人前、あるいは神前で踊れるようになる。
デーヴァダーシーの家系は母系集団で、女が家や財産を相続すると説明されるが、それは父が誰であるか分からないことを暗示しているともいえる。神と結ばれるとされるが、実質的には王族や寺院の僧侶、あるいは裕福な商人がパトロンとなると伝えられた。
基本的にアジア的な通念として、公衆の面前で踊るのは売春婦である、自分を売っていると思われてしまう。
「マイ・フェア・レディ」でも警官の前でオードリー・ヘップバーンが、「アイマ・グッドガール、グッドガール」と叫んでいる。当時、街頭に立つ花売りには、しばしば自分も売っている女がいたから、わたしはカタギよという意味だ。
世界最古の職業ともいわれ、聖なる場所、人の多く集まるところには、古今東西必ずそのような存在があった。
身を捧げるということ
密教の金剛界曼荼羅は、日本では女尊も衣で胸を隠しているが、チベット、ネパールでは歌、舞、花、香等で仏を供養する八供養菩薩や、四波羅蜜菩薩が豊かな胸をあらわにした女尊の姿で描かれている。インドの仏教寺院にも十世紀過ぎまで音楽・舞踊で奉仕する職能集団がいた。
一般にデーヴァダーシーはインドのヒンドゥー寺院の巫女さんと説明されるが、正確ではない。日本の神社には巫女さんがいるから思わず納得してしまう言葉使いだ。いや、神社じゃなくて、お寺でしょとか、お札やお守り、ご集印売ってないでしょとかいう話ではない。
宗教学的にいうと巫覡(ふげき)といって、神に仕えるのは同じかもしれないが、女の場合が巫、男は覡、シャーマンである。神と人の媒介者、つまり、神がかりになって神の言葉をお告げする宗教的職能者のことをいう。
韓国のムーダンはくるくる舞い踊って神がかりになり、お告げをする。人々の相談に乗るが、予言はデーヴァダーシーの仕事ではない。
お祭の時などに、王に従って兵士やレスラー、象とともにパレードに参列して祭りを彩るのもデーヴァダーシーの大事な役目の一つだ。
タゴールがノーベル文学賞を受賞した詩集「ギーターンジャリ」は「歌の捧げもの」と訳される。ギーターは歌、アンジャリは合掌、手を合わせる、即ち尊敬を表している。金剛界曼荼羅の中には金剛嬉菩薩、金剛蔓菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩がいる。
嬉菩薩の嬉は喜びというよりも、舞踊用語のラースヤ(lasya)の漢訳で、女性的な舞いのこと、金剛舞の舞はもう少し一般的な舞踊ヌリッタ(nritta)。鬘マーラー(mala)は華鬘、花環を表す。金剛歌菩薩(gita)は歌をシンボライズした神格。神仏を讃える歌は日本の仏教に声明として伝わっている。
仏を供養する、尊敬の念を表すための捧げものが、人格化されて曼荼羅上に表象されたと説明される。実際は、デーヴァダーシーそのものが神仏への捧げ物であった。
舞踊の最初には「プスパーンジャリ」などを踊って、花(puspa)を捧げる。それこそ、詩歌、舞踊の本質、目的である。神仏に、そして目の前にいる観客を超えて世界中に花を贈る、真摯な自分の気持ちを捧げるということだ。
それがヒンドゥー教でいうバクティ(bhakti)、誠信、信愛だろう。身も心も捧げていいという神に対する熱烈な愛のことである。
デーヴァダーシーの分類
カタカリ、クーリヤーッタムの研究家であり、自ら舞踊家でもあるヴェーヌは、その著「モーヒニーアーッタム」の中で、デーヴァダーシーを分類している。
カルナータカでは専ら寺院で舞踊を行うデーヴァダーシーがハイ・クラス。次に、結婚式や祭礼に招かれて踊るマレーダヴァールがいて、彼女らは寺院で花輪を作ったりする。シューレーヤヴァールと呼ばれる者はただの売春婦で踊りを生業としていない。
タミル・ナードゥのシヴァ寺院で踊るのがデーヴァダーシーで、王様の宮廷で踊る者はラージャダーシーと呼ばれる。祭りなどで踊る者はスヴァダーシーと呼ばれると説明する。
そんなにきちんと分類できるわけではなく、寺院で踊ることもあれば宮廷で舞うこともあったと思われる。シヴァ寺院のシャクティ(性力)信仰とデーヴァダーシーは結びついているといわれるが、ヴィシュヌ系や他のヒンドゥー寺院はもちろんのこと、仏教、ジャイナ教寺院にもいた。
オリッサでデーヴァダーシーに相当するのはマハリーである。高見麻子著田中晴子編『インド回想記』には、次のように書かれている。
オディッシーダンスは、インド東部、オリッサ地方で踊られていた宗教舞踊だ。ヒンドゥ教の聖地であるこの地には、10世紀前後に建てられたジャガンナート寺院をはじめ、たくさんの寺院がある。オディッシーは、これらの寺院の中で神に捧げる踊りとして生まれた。踊り手は「マハリー」と呼ばれ、その踊り子自身が神と結婚するという形で寺院に暮らし、一日中、神に捧げるためだけに踊っていた。16世紀に、イスラムの支配下に入ると、マハリーは宮廷などにも仕えるようになった。寺院の外に出たオディッシーは、「ゴティプア」という女装した少年の踊り手によって受け継がれ、祝い事の席などで踊られる大衆芸能となるが、イギリス統治時代にはそれも衰退の一途を辿る。独立後1950年代に、何人かのゴティプアにより、舞台芸術として復元され、今では古典舞踊の一つとなってインドで親しまれている。
https://www.youtube.com/watch?v=I-7BIetp7rc&fbclid=IwAR2xih4M5Hb_QkdQomtoiHFx4kNEQxBLzhVxq784kHinTdeo2hcZKu-zjG4
バラタの星を目指すには
バーラサラスヴァティーの舞いは、ほぼバラタナーティヤムである。というより、バラタナーティヤムの祖型というべきなのかも知れない。カラークシェートラ流のスポーティーで清々しいスタイルと比べると、もっさりとして見えるかもしれないが、これはこれでできあがっている。
1956年にマーサ・グラハムのカンパニーが、インドで初めてのダンスを通しての舞踊交流の一環としてインドをツアーした。
バーラサラスヴァティーは初めて見るモダンダンスに感激し、その後グラハムと交流を続ける。その団員も、ムドラーやアビナヤや歌詞も分からないながら、バーラの舞いに感銘する。深く通じ合うものがあったのだろう。
近年では、失われた元々のデーヴァダーシーの踊りを、もう引退したデーヴァダーシーについて習って復興しようという動きもある。
スリヴィジャヤ・ナタラージャンらがタパーシャ、Tapasya Kala Sampradayaを設立して活動している。
バーラの舞いは、アラマンディといわれる足を広げて腰を落とす体勢が、現行のカラークシェートラ流よりは浅い。これはケーララのモーヒニーアーッタムやチャーキヤール、ナンギヤールの姿勢に近い。
ケーララの女性舞踊モーヒニーアーッタムは、ゆったりとした女性的な舞い、専らラースャが特徴だ。このスタイルが元々のデーヴァダーシーの動きに近いのではないか。
バレエの森下洋子も子供の頃からオリンピックのメダリスト以上の猛訓練を受けている。好きだから苦とも思わず続けられた。バーラがナットゥヴァナールのカンダッパ・ピッライから受けた訓練は、巨人の星以上のしごきだ。
カンダッパ・ピッライの家系は、十七世紀からタンジョール宮廷に仕えていた。歌を歌いながら小さなシンバルを打って踊りのリサイタルを主導するナットゥヴァナールだ。ピッライというのはイサイ・ヴェーラーラルのカーストであることを示す。チョーラ朝(九~十三世紀)から寺院に所属して音楽舞踊を生業としていた。
バーラサラスヴァティー(1918-1984)は、四歳の時から舞踊を習う。当時は舞踊学校はなく、グルクラ、すなわち師匠の家に住んだり、通ったりして習う。カンダッパは近所に住んでいて家族ぐるみの音楽交流があった。
バーラの祖母、優れた歌手、ヴィーナー奏者として知られるヴィーナー・ダナムマルの金曜夜のコンサートにいつも来ていたので、踊りの歌を熟知していた。バーラの弟ランガナータンはカンダッパにムリダンガムを習った。
ダナムマルの演奏もyoutubeに上がっている。
https://www.youtube.com/watch?v=-P-qRCJaECE
母ジャヤムマルは、朝早く、娘をカンダッパの家に連れて行く。コーヒーを飲んでイディリーを食べるとレッスンが始まる。ティーンエイジャーの子たちと一緒だった。
何時間もアダブ、踊りの基礎となる動きを練習する。姿勢を正すため、サンドバッグを頭から吊した。ウェイト・トレーニングだ。おそらく、子供が額にベルトを掛けて鞄を背負うような形ではないか。首をまっすぐにして強くする。
それだけではない。動きを間違えると鞭で打たれた。ある時、師がこれこれこういう動きをしなさいと命じると、一瞬、バーラはたじろいだ。その時、師は台所に行って燃えた炭を持ってきてバーラの手に押しつけた。折檻の痕のようなもので、まさに、傷だらけの青春だった。
舞踊家として生涯やっていくには、それくらいの鍛錬が必要だということなのだろう。毎朝、親が連れてくる訳だし、逃げ様はなかった。当時、アンチ・ナウチの動きが盛んで、歌手ではなく、ダンサーの道を選ぶのは大変な決断だった。
しかし、母親は「デーヴァダーシーは売春婦である」という、いわれなき汚名を晴らすため、そして、バラタナーティヤム再興のため、インド舞踊は芸術であることを世間に認めさせるため、小さな可愛いバーラに命運を託したのだろう。伝統の家に生まれた者の宿命だ。
アランゲットラム
アランゲットラムは、デビュー・コンサートというよりは、その家族や一族における通過儀礼であった。
全員が男というリサイタルの前に、まずは縁者の女だけの前で踊って、厳しい観客の目に絶えられるものかどうかを見る。それは朝行われる。翌日の夜には好事家の男の前で踊る。
バーラのアランゲットラムは、七歳の時、カンチープラムのアムマークシ・アムマ・テンプルで1925年に行われた。また、1927年9月13日、マドラスのドライスワミ・ナイドゥ博士の家でリサイタルが行われ、多くの著名な音楽家たちに紹介された。お披露目である。
1932年、マドラスにおいてインド文化局の後援を得てバーラのリサイタルが行われた。ナウチ・ガール排斥が始まって半世紀、やっとバラタナーティヤムが日の目を見たといえる。デーヴァダーシーの反撃だ。
翌年、やはりマドラスにおいてミュージック・アカデミーの後援を得てサンギータ・サマージャムでより大きなリサイタルが行われた。バーラは十五歳だった。
この時、ルクミニー・デーヴィーも目撃していて共感した。翌34年、ルクミニーは神智学協会にバーラを招く。自分の誕生日に踊ってくれという依頼だった。
そして、1935年12月にルクミニー・デーヴィーはバラタナーティヤムの踊り手としてデビューすることになる。これは青天の霹靂、大スキャンダルだった。
参考文献
上村勝彦訳『実利論(上)』岩波文庫、1984年。
榊原帰逸『アジアの舞踊』わせだ書房新社、1965年。
高見麻子著 田中晴子編『インド回想記』七月堂、2019年。
寺田吉孝『音楽からインド社会を知る』臨川書院、2016年。
G.Venu,Nirmala Paniker”Mohiniattam/The Lasy Dance”Natana Kairali,1983.
Douglas Night”Balasaraswati”Wesleyan University Press,2010.
CD
K.V.ナラヤナスワミー『瞑想~南インドの古歌』ワーナーミュージック・ジャパン、WPCS-10718
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2019.06.18