第56回 波及するナマステ・イベントと拡張するインド舞踊

1023日に大倉山記念館でタゴールの歌と舞のイベントがあった。奥田由香さんの歌とシュクリシュナ石井さんの舞いである。展覧会も行われていて、その最終日だった。そこで、タゴールの『少年時代』を刊行した大西正幸さん、『とっておきインド花綴り』を刊行した西岡直樹さんとその奥方達と落ち合った。古い付き合いだが、実際に会うのはもう覚えていない位の何十年ぶりだった。

翌週、梵字梵学の大家である長柄行光師が住職を務める光恩寺の秋季不動尊大祭に行くとカナメちゃん、いや、もう「ちゃん」は止めよう、富安カナメさん、シルシラ・リカさんとテジュ・カタックのグループ、そして、「モヒニアッタムの会」が出演していた。これはミティラー美術館の長谷川時夫さんの企画だ。

リカさんのボリウッド・ダンスとテジュさんのカタックで始まるが、その間もモーヒニーアーッタムの白い衣装を着たご婦人が数人うろうろしている。そして、カナメちゃん、いや、カナメさんのバラタナーティヤムが始まると、回りから「凄いっ」と声がかかる。小学五年の時から、毎年、お祭りに参加していて、来る度にカナメちゃん大きくなったねといわれる。ちゃんじゃないったら。もう母の背を追い越した花の中三である。

天才子役と呼ばれた子が必ずしも名優にはならないように、途中でいやになったり、他にやる事を見つけたりするものだ。天才少女として9歳で国際デビューし、去年のショパン・コンクールで四位を得た小林愛美も高三で米留学したが、怖くなってピアノを止めようかという位悩んでやっと自分の道を見出して入賞した。一位、四位に上下があるわけではなく、個性の違い、目指している方向の違いである。

2021年のショパン・コンクールには、研究者にしてピアニストとして活動する角野隼斗もセミファイナルまで進み、順位以上に高く評価される。アップライト・ピアノのハンマーに工夫を凝らすなど理工系らしい発想で古典の世界を革新している。一面識もないが、高校の後輩なので応援したい。

カナメさんも何年前になるのかコロナ勃発前に拝見した時は、抜群に上手いものの、振り付けを踊らされている感があったのだが、もうすっかり自分の踊りになっていると思った。リモートでインドの大家から続けて教えを受けている。やはり、何か新しい爽やかな風が吹いている。

そして、モーヒニー、つまり魅惑する女達の出番になってやっと気がついた。あ、安達さんだ!後で考えてみると彼女の還暦リサイタルに行って以来十五年ぶりの出会いだ。お歳をばらしてしまった。熟女達による楽しい構成の舞い。

 

元祖ナマステ

大西さん、西岡さん、安達さんとは198384年増上寺のインド祭りで知り合っている。安達さんは、インド祭りの実行委員長ともいうべき渡辺建夫さんと結婚したので渡辺尚代さんである。当時は、かんみなさんの元でタゴール・ダンスを踊っていた。私の『カタカリ万華鏡』を読んでケーララに行きモーヒニーアーッタムと出会った。

かと思うと「つながる・インディア」を通じて若林忠宏さんからメールが来た。昔、羅宇屋というインド音楽のライブハウス、そして音楽教室を経営していたが、今は福岡在住である。シタール、タブラ何でもこいの若林さんであった。彼等、今でも活躍している何人かが増上寺ホールに出演した。

増上寺を全館借り切って、各部屋で展覧会、パネル・ディスカッションやサリーの着付け教室、ヨーガ教室などを行い、外ではバザールを繰り広げ、カレー屋が出店し、野外ステージもあった。ナマステ増上寺である。

インド映画祭は別に映画館で行われる事になっていたので、増上寺では記録映画を紹介し前宣伝をした。映画祭は831015日から30日まで下北沢の鈴なり壱番館(その後改装されて今は小劇場)で催され、「サーカス」「芽生え」「ままごとの家」等が紹介された。昭和の香りが漂う。

84年のインド祭りの写真展で、私もケーララの芸能の写真を何点か出展し、それが『カタカリ万華鏡』の出版につながって、ケーララ・ブーム?の端緒となった。来年はインド祭り四十周年なので同窓会をやろうという話になってきた。昭和のインド好きの仲間である。

インド祭りの当初の会議では、映画は映画祭、音楽舞踊は会場を別に借りてとインド・ウィークにしようみたいな話だったが、増上寺を借りて一緒にやりましょうと私が提案して増上寺と交渉した。三日間借り切って五十万円の謝礼とした。会議の直前に壬生狂言を見に行って、あちこちで同時多発的に起こるイベントが面白いと思ったからだ。要するに文化祭、大学祭のノリなのだが。私は中高で文化祭準備委員をやり、大学では心茶会という茶道部にいて、イベント開催は大好きだった。

 

波及するナマステ・イベント

本家のナマステ・インディアはコロナ禍で今年も中止になってしまったが、あちこちでインド祭は開かれている。IT関係を中心にインドから日本に移り住む人が増えてきたからだろうか。ディワリ・イン・ヨコハマも再開し、ドゥルガー・プージャーなども行われているようだ。沖縄では「ハイサイ!!インディア」、飯能でもナマステ・イベントが行われた。

コロナが落ち着いて、今年は満を持してインド祭ブームの様相を呈している。ブームであるかどうかはさておいて、平成の時代にインド・レストラン(ネパール人経営が多い)とインド音楽の演奏家と舞踊家は確実に増えた。神戸メリケンパークのインディア・メーラーはもう定着した。一度、そこに出くわした事がある。平林千亜紀さんによるナマステ富士山も定着しつつある。

今年初めて京都の梅小路公園でインディア祭が催された。神戸にはインド人が昔から住んでつながりは深いと思われるが、一体、京都でどなたが企画運営しているのかと、一日でも立ち寄りたかったのだが、仕事が重なって行けなくなった。仮設ステージは音響が悪く踊っていても聞き取りにくかったという。何事もやってみるまで分からない。

我々が1983年と84年に行ったインド祭りは二回で終わった。仕事を抱えたボランティアが手弁当で参加した。資金がないので、世話人と称す実行委員が一万円ずつプールして活動資金とした。私は修士論文を提出した後で博士課程は束縛が少なかった。

早稲田や美大の学生も参加した。言い出しっぺはアジア・アフリカ作家会議の荒木重雄さんや渡辺建夫さんだが、「インド通信」松岡環さんの呼びかけで集まった人が多かったように思う。大西咲子さん、佐倉永治さん等が経営していた下北沢のライブハウス「あしゅん」を根城に、会議を何回も重ねた。

資金がないので、パンフレットを作ってあちこちから広告を集めようという事になり、インド大使館、インド政府観光局、在日インド人会等も力を入れてくれ、インドの銀行、エア・インディア、比良琥、旅行会社、出版社からかなり多くの広告を集める事が出来た。そこでいろいろな人に会うのも楽しかった。

チラシはリソグラフで私が作ってたったの5000枚、インド・レストランや民芸店、サリー店等に置いた。新聞には数行案内が出た。8310月8/9/10日の三日間開催されたが、驚いた事に一日一万人近くが訪れたのだった。

翌年になるとパワーダウンして、102021日の二日間。三回目は続ける事が出来ず、その代わり関わったメンバー有志でラーマーヤナ劇が行われた。世話人は持ち出しの労働奉仕で、カレー屋、民芸屋は大儲けであった。わずかでもボランティアに報酬のないイベントは続ける事が難しい。

出演者とバザール出展者はすぐに集まるが、裏方をまとめるのは大変な事で中核となる組織、グループが必要だ。大野昌直さん率いるDIC(インドの魅力を発掘する会)やベンガル文学研究会、シャプラニール、成瀬雅春さんのデバイン・ヨガクラブ等が参画した。

 

声明とインド舞踊

前後するが、10月3日には埼玉会館で埼玉県仏教徒大会が行われ、高尾山薬王院貫首佐藤秀仁師の法話の後、「声明とインド舞踊」のイベントが行われた。これは私の企画で、毎年、延命寺で行っている花祭りの延長にある。

看板に偽りあり?なのか、声明をバックにインド舞踊を踊るわけではない。声明の後ろで共演したのは、銅鑼を中心としたパーカッションの神田佳子さんと口琴を演奏した竹原幸一さんである。力強い真言声明を宇宙的に表現できたのではないかと思う。

続いて横田ゆうわさんによるバラタナーティヤム。竹原さんはムリダンガムを叩き、野火さんはナットゥバンガムを握りリズムを刻んで歌を歌う。三人が一緒に演奏するのはこの日初めてというヒヤヒヤものだったが、鮮やかにプロの仕事をした。インド舞踊で最初に花を撒くが声明でも散華して、共通の基盤から成り立っていることが分かる。

次は、ヘンリー・マンシーニの名曲「ひまわり」。同名映画のひまわり畑は、ウクライナの激戦地ヘルソン州です。栗田妙子さんのピアノ、坂田明のサックスに神田さんと竹原さんが寄り添う。初めて聞く人も涙を流す名演だ。

さらに、谷川俊太郎作詞武満徹作曲の名曲「死んだ男の残したものは」。死んだ兵士の残したものは、壊れた銃とゆがんだ地球。今回のイベントのテーマは天下泰平万民豊楽、世の中が平和で人々が豊かに楽しく暮らせるようにと。声高にはいわないものの戦争反対の気持ちを込めています。

真っ暗な照明のなか坂田さんの独演会のように曲が進み、野火杏子さんが登場する。振り付けの基本はインド舞踊だが、アビナヤ(顔の表情)は決まり事のアビナヤを超えた迫真性があった。声明とインド舞踊の看板だが、これも曲こそ日本製だが、インド舞踊である。拡張するインド舞踊。

北インド音楽の演奏者は多いが、南インド音楽の楽器を演奏する人は少ない。カラオケで踊る事が多いが、野火さんは早くから生演奏に挑戦している。生徒の伴奏はいつもしているが、大昔の弟子とはいえ、立派な舞踊家に成長した横田さんの伴奏は初めて。失敗しないかと生徒の動きにばかり注意が向く時とは違い、大変、楽しかったそうだ。ここで踊ったのは、一曲そのままではなく、リ・コンポーズである。ワープロは離婚ポーズと出てしまった。

全体の持ち時間が40分程度なので一曲およそ10分の分担である。ムリダンガム・ソロに始まり、プシュパンジャリ、神様にお花を捧げ、会の成功を祈ります。シュローカ、舞踊の神ジヴァ(ナタラージャ)を讃える詩。7拍子のアラリップ、バラタナーティヤムに特徴的な動きの型を組み合わせた演目。最後は、ヴァルナムという長い演目の中から、動きとリズムを楽しむパートを2つ。という構成でザッツ・バラタナーテイヤム。これを事前打ち合わせと当日の合わせだけで、難なくやり遂げるのだからたいしたものです。

最後は般若心経に演奏陣も参加して、再び散華し善男善女を祝福した。

 

日本人の目指すもの

野火さんは、いや多くのインド舞踊家は日本文化の中で育っていて、ヒンドゥー教の物語を演じる事はまだしも、日常生活の仕草や表情が違い、体型や顔つきが異なり、歩き方まで違うインド人の踊りをやる事への違和感を感じる。私のやっているのはまがい物ではないかと。

それはクラシックでも同じ事で、ポーランド人でもないのにショパンをという考え方もある。ジャズも黒人のものなのに日本人がやってるのは本物なのかと劣等感を持っていた。

穐吉敏子さん、渡辺貞夫さんの時代は、アメリカで本場のジャズを学んで日本に伝えるという役割が期待された。遣唐使ならぬ、全日本ジャズ界の期待を一身に担った、遣バークリー使だった。

穐吉さんのピアノは、もはやアメリカでは失われた正調ビバップなので、人間国宝だ。結婚してアメリカに定住し、苦労して自分の進む道を見出した。色彩感に富み陰影のあるオーケストレーションで評価された。ナベサダはいち早くブラジル音楽を取り入れフュージョンの先駆けとなって日本のジャズを牽引した。お二人は、今も現役で活躍する。

高校時代、山下トリオを見た先輩は、聞くと見るでは大違い、ストリップより面白いという変な褒め方をしていた。その頃のサックス奏者は中村誠一さん、ドラムは森山威男さん。

このトリオは高三の頃か、浦和駅東口前にあったジャズ喫茶曼荼羅で見た。フリー・ジャズは現代音楽の即興演奏の影響を受けて、理屈っぽく七面倒くさいものとも思われていたが、山下トリオはエネルギーの塊を受けて身体を揺らすだけで十分だった。

72年に二代目がアルト・サックスの坂田明さんに変わり、山下トリオとして74年ドイツに初遠征。その年すぐに呼び戻されてベルリン・ジャズ・フェスティバル、ドナウエッシンゲン現代音楽祭に出演。翌75年にも二十カ所に遠征。日本のジャズが輸出できるようになった。

山下トリオのヨーロッパ・ツアーは大成功した。『キアズマ』と『クレイ』が残されている。76年スイス・モントルーでのライブ盤『モントルー・アフターグロウ』ではドラムが小山彰太に変わる。

ジャズに黒人も白人も日本人もなく、ジャズという共通言語を使えば人種は全く関係ない。アメリカ黒人文化を尊敬する故に、ヨーロッパ人のジャズは二線級という劣等感が彼等自身にもあったかもしれない。そんな考えを吹き飛ばし、暴風雨のように爆走する東洋から来たカミカゼ・トリオは大歓迎され、今も伝説として残っている。外国で認められて初めて日本でも評価されるというパターンである。日本のジャズというより、山下のジャズ、森山のジャズ、坂田のジャズだ。本物の自分であればよい。それでいいのだ。

 

何が本流?

クラッシック音楽は楽譜通りに演奏するんでしょと思ってしまうが、ショパンの時代は自由に前奏を付けたり、装飾音の変奏を施したりしていた。ショパン自身の譜にも書き込みのある異なる版があり、それをどうとらえるかという問題もある。ポーランドのいわゆるショパニストの見解がそのまま他国の音楽家に受け入れられているわけではなく、それもコンクールの順位に影響する。何がショパンか。

バラタナーティヤムはカラークシェートラ流が主流派だが、デーヴァダーシーの系統も残っていて、今それを復興しよう、大切にしようという動きもある。寺院付き、あるいは宮廷付きの芸妓、または、売春婦の踊りとも見なされていたシャディルと呼ばれた踊りがバラモン達によってサンスクリット化、格上げされた。それを裕福な高カーストの清く正しく美しい舞踊に編集して競技化したのが、ルクミニー・テーヴィー率いる学校カラークシェートラである。

その事は、地方に各流派ある柔術をスポーツ化して危険な技を禁止し(実戦では危険な技こそ役に立つ)、講道館の柔道を作り上げた嘉納治五郎の仕事に似ている。政治的に強いものが本流となる。それが正しいというわけではない。

バラタナーティヤムの骨格はタンジョール宮廷に仕えた楽師の四兄弟が築き、その末弟がケーララに行って教えた。その系統がモーヒニーアーッタムなので、こちらの方がデーヴァダーシーの舞いに近いだろう。そのどちらも色っぽい演目は忌避されるようになった。

15年前に安達さんのモーヒニーアーッタムを拝見した時、意外にも高見麻子さん(200711月3日没)のオリッシーに似ていると思った。それは二人とも、かんみなさんにタゴール・ダンスを習っていたからだ。歌い回しならぬ、踊り回しが似ていた。表情、アクセントの付け方というのか。

インド人のインド舞踊と日本人の踊りを見ると、インド人の場合、は虫類のようにパッパッと即物的に動く。日本人は日本舞踊的にもったいを付けるというのか、余計なところに気持ちを入れてしまう癖がある。また、インド人は腰と太ももの筋肉が発達して、がっしりと大地との接地性が高い。普段から裸足やサンダル履きなので、足の指で土をつかむ力が強い。日本人はひ弱、よくいえば繊細である。

稽古事は何でも師匠の事をそっくり真似する事から始まるが、骨格、体型や性格によってどうしても違いが出てくる。また、リズム感というのも、基本的には母国語がベースとなっている。日本語はべたべたと切れが悪い。ショパンも演奏家はポーランド語を勉強すべしと言われる。

「さよならはダンスの後に」という曲があるが、日本では倍賞千恵子の歌でヒットした。ベン・E・キングが歌う「SAVE THE LAST DANCE FOR ME」はリズム・アンド・ブルースかもしれないが、倍賞は日本語として見事に歌い回して歌謡曲となった。換骨奪胎、私には別の曲のように聞こえる。やっぱり顔が横田ゆうわさんに似ている。

さらに有名な曲に「スタンド・バイ・ミー」がある。倍賞千恵子が歌ってないかと探してみたら、なんとベン・E・キング自身が日本語で歌っているのが見つかってしまった。ほとんど練習しないで、意味も分からずローマ字を読んでいる。日本語の歌い回しが出来ていない。珍盤、黒歴史である。

何が言いたいのかというと、日本人のインド舞踊というのは倍賞千恵子のスタイル、日本語なまりのインド舞踊でいいのではないかと思った。ただ、これを外国人が認めるかどうかは私には分からない。穐吉さんでさえ、渡米時は実力というより日本の女の子がキモノを着てジャズを弾くよと物珍しさで注目されたのだった。

山下トリオが本場アメリカでもない、日本でもない第三国のヨーロッパで評価されたように、日本人のインド舞踊というのも誰々さんの弟子だからというのではなく、一舞踊家として戦ってインド以外の国で評価されなければならない。シャクティさんが、エジンバラ・フェスティバルに出ているように、拡張するインド舞踊で舞踊界を進めて欲しい。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2022.12.13