河野亮仙の天竺舞技宇儀㉘

インド、スリランカ、ネパールの仮面舞踊/インド周縁の仮面劇

インド演劇の伝統において基本は素面で仮面の使用は例外的だ。ラームリーラーで猿や10の顔を持つラーヴァナに仮面が用いられることはある。バラタナーティヤムの源流の一つであるバーガヴァタ・メーラーの演目「プラフラーダ・チャリタ」のなかでは人獅子ナラシンハに仮面が用いられる。

神様が魔物を退治するという物語なら、魔物の仮面を被ればよいのだが、カーリダーサの戯曲などで役者が情感を表現するには仮面では限界があり、素面での感情表現が望まれる。

全面的に仮面を用いる舞踊としては、インド西南部のケーララ州にパダヤニという芸能が知られ、1987年来日した。その時、教育テレビで30分番組が作られて、わたしが解説した。

民俗的な、いわゆるデーシーのパダヤニも、古典マールギのクーリヤーッタムも、踊りを覚えるときには口三味線のボールを覚えてからステップを学ぶ。
https://www.youtube.com/watch?v=YME26Oh1ikE

今は何でもyoutubeに上がっているので驚きである。大きい被り物を着けるカーラン・コーラムとバイラヴィー・コーラムは、カタカリ舞踊劇のように踊り手もまた顔を緑色に化粧している。日本人は仮面と化粧を区別するが、コーラムと呼ばれる被り物(マスケット)とメイクには境目がない。椰子の木からお面や衣装を作る。仮面という概念ではなくて、変装、異装のヴァリエーションの一つだ。

スリランカにもコーラム仮面劇と呼ばれるものがあるが、こちらの仮面はしっかりと顔を覆う大きなものとなっている。ケーララでは、コーラムという言葉で仮面のみならず、剣や盾という持ち物を含めた全体の扮装、動きの軌跡、醸し出す雰囲気まで含めていう。アーハーリヤ・アビナヤに近い概念かもしれない。

インドの演劇論におけるアビナヤ、演技術は4種に分類される。アーンギカは身体の仕草、身振り、サートヴィカは情緒、ヴァーチカは科白、アーハーリヤは扮装。初めに神様や霊のイメージを感得して、それを化粧で表すか、仮面で表現するかは技術、表現法の違いにすぎない。

パダヤニはケーララ州の中央部の芸能だが、北の方にはテイヤム、さらに北のカルナータカ州にはブータという呪術的な祭祀芸能があり、仮面を使うこともあるが、基本的にはメイク。ヤシの木の樹皮を使う飾り物、衣装等にパダヤニと共通性がある。パダヤニは「マールカンデーヤ・プラーナ」に基づくヒンドゥーの神話。テイヤム、ブータは土地の神霊、女神、英雄の顕現だ。

テイヤム、ブータと共通性のあるスリランカのトヴィルも、コーラムのように仮面を被るキャラクターがある。「スリランカの悪魔祓い」として上田紀行が紹介し、後に癒やしという言葉が流行った。文化人類学者の間でこのような治病儀礼、祭祀芸能が注目されるようになり、古賀万由里は『南インドの芸能的儀礼をめぐる民族誌』を著した。わたしがざざざと紹介してから30年後ということになる。

勇壮なプルリア・チョウ

インド西南部のケーララから東北部に飛ぶとチョウ・ナーチと呼ばれる舞踊がある。一般に仮面舞踊として紹介されるが、仮面を被るのはビハール州のセライケラ・チョウと西ベンガル州のプルリア・チョウで、両者ともしばしば来日している。仮面を被らない方は日本ではお呼びがかからない。
https://www.youtube.com/watch?v=6Wc7Dw2s4T4
https://www.youtube.com/watch?v=caH9mDdTua0

1981年、第3回「アジア伝統芸能の交流」において、カルナータカ州のヤクシャガーナ、ネパールのマハカリ・ピャクンと共にプルリア・チョウとセライケラ・チョウが来日公演をしている。その時わたしはインド留学中だったが、1983年末に「国際チョウ・セミナー」に参加して村々を訪れたことがある。
https://www.youtube.com/watch?v=Mn8udllCdhI

プルリア・チョウを踊るのはムンダ族である。伴奏はドーム、どちらも部族民で、かつては領主の元で兵士として働いたという。基本的には農民で、4月の春祭り、チャイトラ・パルヴァの頃には毎晩駆り出される。その頃はもう気温40度を超えている。音楽も賑やかで、踊りも大勢で激しく踊るので人気がある。雨期の前なので、雨乞いの踊りといわれることもある。

17世紀頃に領主がヒンドゥー教を受け入れ、ドゥルガー女神が水牛の魔物マヒシャースラを殺したり、マハーバーラタの英雄アビマニュの物語を演じるようになったのは200年ほど前ともいわれる。もともとは部族の神を祀って踊り狂っていたのか。

また、プルリアの仮面作りのチョリダ村も訪ねたこともある。ヒンドゥーの神像を作るために呼び集められた職人、木彫師・大工のジャーティ、スートラダールが作る。昔は木製だったそうだが、今は、粘土の型に紙と布と粘土を重ね合わせて作る。村々に400以上もあるといわれるプルリア・チョウのグループが皆ここに買いに来る。

スートラダールは演劇において座長の意味でもあるが、文字通りには糸を持つ者という意味で、元は舞台制作、建築を担当する。糸を引いて測量し、舞台小屋を建設したのだろう。

衣装や仮面の飾りにしても素材はどんどん変わって、綿ではなく化繊やプラスチックを使ったりしている。インド人はあまり古いものを伝統として守ることなく、どんどん便利のいい方に変えてゆく。インド音楽の楽器としてバイオリンやサックス、ギター、マンドリン、シャーナイの代わりにトランペットやクラリネットも使う。

東大寺、法隆寺に千年以上前の伎楽面が残ることはあっても、シヴァ寺院に古い仮面が残ることはないようだ。神霊の憑いたものは危険だから流して捨てるという考え方もある。
https://www.youtube.com/watch?v=4Yo7E9DMBlM

優雅なセライケラのチョウ

セライケラのチョウは、かつて、シンブーム藩王国の王子たちが舞っていた優雅なものである。ガルダの面などは1930年代に、時の藩王プラタープ・シン・デーオがデザインしたといわれる。現在はビハール州に属すが、以前はオリッサ州に属したのでオリヤー語を話している。いち早く、1938年にヨーロッパ公演を行っている。

レパートリーは、コナラクのスーリヤ寺院にまつわる悲恋物語や「孔雀」「船頭」、リグヴェーダに取材した「ラートリ(夜)」、初期からのレパートリーと思われる「剣の舞い」などがあるが、この100年内に創作されたものがほとんどで、一人二人で舞い、10分程度で短い。というのも、ぴったりした仮面を付けると呼吸困難となるからだ。

一説では、セライケラ・チョウの起源は、プルリアのバグムンディ王家から300年近く前に伝えられたものという。

セライケラの仮面は、昔は陶製であったとも伝えられ、後に木で作られ、それでも重くて不便なので現在の形になった。元王族の家族が村の隅で制作しているという。

プルリアの仮面よりも繊細であり、ジャワの仮面トペンによく似ているので、インド東海岸とインドネシアとの交流が窺えるが証拠はない。

おそらく、インドネシア人ならインドから伝わったという説を否定し、オリジナル、乃至、インドネシアの方からインドに伝わったと主張するのではないか。

インドとインドネシアの交流は?

福岡まどか『ジャワの仮面舞踊』によると、現在のトペン・チルボンの母体となった仮面芸術が生まれたのは、16世紀のマタラム王国の時代とされる。ジャワ島にイスラーム神秘主義を根付かせた聖人の一人、スナン・カリジャガが仮面劇ワヤン・トペンとその仮面を創作したと伝えられる。

影絵芝居も彼が創始したという伝説がある。イスラーム神秘主義は、ペルシアやインド西海岸のグジャラートからもたらされたという。交易のためグジャラート商人らが行き来した。商船には天文・占星術に通じた僧侶、天候を占いコントロールするまじない師が同乗することが多いが、果たして苦行者的なイスラーム神秘主義のファキールが嵐を止めたりすることはあったのだろうか。また、東インドの仮面劇とのつながりは見い出しがたい。

また、トペン・チルボンの演目の始まる前には、踊り手は観客に背を向け、仮面の箱の上に顔を伏せて瞑想し、祖先から伝えられたマントラを心の中で唱えるという。

ボロブドゥールやプランバナンの舞踊図に仮面は見られないが、ジャワやバリに古面は残っているのだろうか。

仮面を用いないチョウ

オリッサ州バリパダに伝えられるマユルバンジのチョウは近代的な舞踊劇だ。150年近く前にセライケラから二人の指導者を招いてチョウを学んだというが、仮面は採用していない。その頃、セライケラでも仮面を被らないで踊ったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=XfrIlob04gE

群舞が見事だが、女形の少年たちも美しく、ソロ・ダンサーの技術は際立っている。かつて、オリッシーのグル・ケールチャランが所属したラーム・リーラーの座長モーハンスンダル・ゴースワ-ミ-がここに踊りを学びに来たという。

オリッシーの踊り手として知られるシャロン・ローウェンやイリアナ・チタリスティがマユルバンジ・チョウのソロ・ダンスを踊っている。本来、男の舞踊であるが、女子も盛んに習って踊っているようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=fkX67I0vMWw&t=40s
https://www.youtube.com/watch?v=U8O_iKGVT58
https://www.youtube.com/watch?v=tCNZSlkn_bw

より素朴なジャルグラムのチョウは、部族民クルミー系の人が踊る。こちらも男のみだが、女形はいかにも男が女装したという風情。ヴィシュヌ神を讃える演目もあり、ガルダ鳥には仮面を用いるが、農民の田植えや収穫を祝うような素朴な踊りが多い。ピンクっぽい化粧をするが、こちらがチョウの原型に近いのではないかと思う。

しかし、youtubeで探してみると、今やプルリア・チョウの影響を受けて仮面を被り、エンターテイメント化、商業化して、全く別物になっているようだ。きっと、現地のインド人にとってみれば、正しい進化なのだろう。この30年ちょっとの間に驚くべき変貌を遂げている。
https://www.youtube.com/watch?v=ECMUmgcbTC0&t=710s

それでは何がチョウなのかというと、ベンガル、オリッサ、ビハールにまたがるパンチャ・パルガニアン地方において、チャイトラ・パルヴァの祭りに行われる舞踊劇ということになろうか。

楽器編成は、樽形太鼓のドール(右手は素手、左はバチで叩く)を中心に鉢形の太鼓ダムシャ(セライケラではナガラと呼ぶ)、これは二本のバチで叩く、チャルメラを大きくしたようなダブルリードのシャーナイを用いるのが共通している。

武術訓練

これらの踊りを下支えしているのが、パリカンダ(パリ=盾+カンダ=剣)と呼ばれる武術的な舞踊の訓練だ。ラース・リーラーやオリッシー・ダンスの場合も、基礎鍛錬として共通するトレーニングを行っている。
https://www.facebook.com/watch/?v=214784129191320
https://www.youtube.com/watch?v=hDdp7Q2e_-k
https://www.youtube.com/watch?v=NFPus3Vm1TU

優雅に見せる舞踊の基礎は、ガチガチの武術トレーニングである。セライケラの踊りの特徴は身体のひねりであり、これは武術においてさっと急所をよけるときに必要な技術である。オリッシー・ダンスにおいても胸から回すという訓練がなされる。

チョウ・ナーチというのは、日本の出初め式のように、かつての戦士たちが日頃の鍛錬の成果を見せる場だったのではないか。チョウの語源についてもサンスクリット語のチャーヤー(影)であるとか、ムンダ語のチャク(幽霊)、オリヤー語のチャウ(攻撃)、チャウニ(軍隊の陣営)に求めるが、おそらく軍隊と関係するのであろう。音楽は軍楽に準じるのではないか。そして、次第にヒンドゥの物語を採用し、そのため神格の仮面を用いるようになる。

それはプルリアにスートラダールと呼ばれる神像作りの集団がやって来てからのこと。17、8世紀頃から、次第に形成された伝統で、おそらく部族民にもヒンドゥー教が広まり、シャクティ信仰が盛んになってからだろう。

隣接するネパールの伝統とのつながりも、時代的に共通して無関係とはいえないが、直接的に結ぶ線は見えていない。それぞれ各分野の専門家はいるが、それらをつなげて考える人は今までいなかった。

インドラ・ジャートラと仮面劇

インドの演劇というのは、ヒマラヤに住む神々のためにインドラの旗をかざして神が魔物を退治する物語を演じたのが始まりだという。

ヒマラヤの麓ネパール、カトマンドゥの秋には、旧王宮広場界隈で繰り広げられるインドラ・ジャートラという8日間に亘る秋の祭りがある。ジャートラとはヤートラー、行列、巡行を意味する。オリッサではプリー、ジャガンナート寺院のラタ・ジャートラは、熱狂的で死者が出る山車の祭りだ。

カトマンドゥでは、生き神とされる少女クマリが山車に乗って巡行したり、宇宙の支柱たる柱を立てるので知られている。クマリはサキヤ・カーストの中から特別に選ばれた初潮前の少女だが、祭りに際しては儀軌に基づいて女神の姿となる。

すなわち、真紅と金の衣装をまとい、長い蛇の首飾り、魔除けの金のメダルを胸に掛け、額に真っ赤なティカを額一面に塗り、中央に第三の眼を付け、頭には九種の宝石を嵌めた宝冠を被る。その過程を通じて、神霊が少女の中に顕現する。

神木を建てて諸儀礼をすませ、先端から吊り下げたインドラの旗ドヴァジャ乃至ジャルジャラをはためかす。ナーティヤ・シャーストラにいうインドラの旗祭りを再現している。セライケラのチャイトラ・パルヴァでもラグナート寺院の前にジャルジャラを建てる。こちらは、柱というよりは長い竿で、てっぺんに旗を掲げる。鯉幟の代わりにインドラの旗をなびかせているかんじだ。

インドラの柱、標識を建ててインドラ神を迎え、その吉祥な磁場において、クマリに宿る女神ドゥルガー(王朝の守り神タレジュ女神)の臨席を得て、王権の更新、王国の秩序回復と繁栄を目指す。

その時、街ではマハカリ・ピャクンという仮面劇が繰り広げられる。これは「デーヴィー・マハートミヤ(大女神の偉大さ)」というプラーナ文献に基づく。女神がマドゥとカイタバ、マヒシャースラという水牛の魔物、スンバとニスンバを滅ぼす物語だ。プルリア・チョウとの関係は不明である。

また、クマリの館の脇の寺ではヴィシュヌ神の十化身劇が行われる。扮装した役者が静止したポーズを取り、場面や情景を絵画的に表現するそうだ。

インドラ・ジャートラにはラケー(お化け)と呼ばれる仮面を被った魔物も走り回り、家々を訪ね祭祀を行ったりするが、これもマハカリ・ピャクンとは別物。

バクタプルでもインドラの祭りは行われるが、これは4月辺りに行われるチャイトラ月の祭りで、その点ではチョウと共通性がある。

神々とアスラの戦い

「デーヴィー・マハートミヤ」によると、かつて、マヒシャがアスラの帝王であり、砦の破壊者(インドラ)が神々の帝王であった時、神とアスラの間に、満100年にわたる戦いがあったという。

勇猛なアスラたちは神の軍に勝ち、マヒシャが王となった。そこで、神々はブラフマンを先頭に、シヴァとヴィシュヌの下に赴いて助けてくれるよう訴えた。その言葉を聞いてヴィシュヌは眉をひそめて怒り、顔から熱光(テージャス)を放った。

ブラフマン、インドラ、シヴァや他の神々も熱光を放ち、それは一つに集まって光で三界を満たす女の姿となった。そして、吉祥なる女チャンディカーが誕生した。アンビカー、ドゥルガー、カーリー、ウマー、チャームンダー、カウシキー等々の名でも呼ばれる。

光、熱として表象されたエネルギー、シャクティは最高原理であり、その顕現が女神、最高神である。それを歌った「デーヴィー・マハートミヤ」は9日間の女神の祭り、ナヴァ・ラートリに読まれる。勝利の10日目はヴィジャヤ・ダシャミー、ダサイン、ダサラーとして祝われる。

秋の女神の祭りにおいて、女神が祭主である王に、力(シャクティ)とそれを行使する権威を与えた。

八母神舞踊劇

マハカリ・ピャクンが日本で紹介されたが、これは17世紀、バドガオンのブバティンドラ・マッラ王が始めたとされる。国王が主催者で、娯楽として行われる。その背後には密教的な八母神アシュタマートリカーの祭りの伝統がある。それぞれの寺院の祀る主神や女神にちなんだ舞踊劇が宗教儀礼として行われた。

毎年行われる八母神舞踊劇としてはバクタプルのナヴァ・ドゥルガー、パタンのガナ(一柳の表記ではガン・ピャカン)、ハレシディのトリシャクティ等々があり、12年に一度だけ上演される寺院もある。女神やバイラヴァ(シヴァ神の忿怒相)が魔物を征伐する物語を上演する。

ガン・ピャカンにおいては、八母神とバイラヴァと四神が輪になって踊る。観客を予定していない。幕間劇があり、そこでは仏教的、説教のようなことをいう。

八母神の舞踊劇は、ダシャラー、ナヴァラートラ祭に行われることも多い。街角に飾られたドゥルガーをプージャー(供養)し、10日目に川に流す。その勝利の10日目ヴィジャヤ・ダシャミーには、ドゥルガーがマヒシャに勝ったお祝いとラーマがラーヴァナを打ち破ったお祝いが重なる。

仮面はドチャと呼ばれる神の土、粘土で作られる。粘土を浄め、前年使われた仮面を燃やして出来た灰と混ぜ合わせ、女神やバイラヴァの命を入魂する。仮面の制作自体が儀式であり、仮面は儀礼を通して聖性を帯びる。仮面を着けると女神が入り込むので自然に踊り出すという。神格により塗られる色も決まっている。

仮面作りは絵師のカーストであるチトラカールが行う。やはり、神像作りが先にあって、その頭の部分が独立して仮面になったのではないか。民族学博物館のビデオテークには30年以上前のネパールでの仮面作りの映像があるので、見に行かないと。

ヒンドゥーの物語を演じるが、音楽舞踊はネワール仏教の金剛乗の僧侶ヴァジラーチャーリヤが伝承している。彼らはまた、密教的な歌チャリヤ-・ギーティと舞踊チャリヤー・ヌリティヤを伝承している。

観想によって現れた神仏のイメージ、動きを舞踊として表現するサーダナ、成就法である。7、8世紀頃に始まったと伝えられるのでバーラ朝の密教の影響下にある。儀礼のみならずチャリヤー・ヌリティヤでもムドラーを用いるなどインド舞踊的である。

八母神劇は、もともとネワールの僧侶階級であるヴァジラーチャリヤの舞いを総合して演劇化し、仮面を被って上演するようになったのではないか。
https://www.youtube.com/watch?v=UitUmm6WZhQ

チャリヤー・ヌリティヤは諸尊踊讃とも訳されるが、ネワール語でチャチャー、英語ではヴァジラヤーナ・ダンスとして知られる。しかしそれは、ダンスではなく諸仏諸尊そのものの振る舞いであり、アーチャリヤ、すなわち阿闍梨が自らの瞑想体験を確証するための秘密の行法、サーダナである。

八母神の舞踊劇に出演する者は、マントラについての秘儀の伝授を受け、様々な礼拝、儀礼を通じて彼ら自身が神に変身する。演じているのは踊り手ではなく、儀礼によって請来された神々そのものと考えられる。

舞踊劇の演者は、精進潔斎して臨み、供犠を供える。カトマンドゥ盆地の八方に八母神とその夫である八バイラヴァが住まうので、町を挙げて舞踊劇を奉納して供養し、悪霊を祓い、町の繁栄、衆生の安寧を祈り、国家を災害から守る。

女神たちのコスモス

八地母神(アシュタマートリカー、八人の母)についてもう一度整理しよう。

インダス文明期において地母神の崇拝は認められようが、ヴェーダの宗教ではサラスヴァティーらが讃えられることがあっても、女神の存在は希薄である。

それがグプタ朝(4~6世紀)から女神崇拝が盛んになる。ドゥルガーの語源は「近づきがたい」と説明されるが、それは恐いからというよりは、美人過ぎて近寄りがたいという意味かもしれない。

もともとインドには大地の神、地母神崇拝というか村の女神の信仰がある。それらが統合されて大女神となるので、女神の名前は数えられないくらいあることになる。ドゥルガーがスンバ、ニスンバを倒すときに七母神と共に戦う。ヒンドゥーの主要神の妃なので、ブラフマーニー、マーヘーシュヴァリー、カウマーリー、ヴァイシュナヴィー、ヴァーラーヒー、インドラーニー、チャームンダーなどの名で呼ばれる。後にマハーラクシュミー、あるいはナーラーヤニーが加わって八母神となる。

マハカリ・ピャクンは1987年、京王百貨店の大ネパール王国祭典にも来日している。同時に僧侶達の仮面劇マニ・リンドゥも招いた。昭和62年のことである。この紹介記事を写真入りで載せた集英社の月刊誌『すばる』8月号の裏表紙の公告は、定価25万円のパイロット蒔絵万年筆。バブル崩壊前は百貨店も出版社も余裕があった。デパートではアジアの写真展が行われ、出版社は美術全集や写真集を発行できた。今はどん底である。

マニ・リンドゥは1986年に財団法人リトルワールドに招かれていた。僧侶達が寺院の大祭において教化のために舞い踊るもの。ネパールではマニ・リンドゥと呼ばれ、チベットではチャム、中国語で跳舞と呼ばれる。これについては、次回。

ジャルグラム・スタイル

写真とキャプションは姫野翠「チョウの魅力/東インドの舞踊」による

素朴でどことなく土の香りがするジャグラム・スタイルのチョウは、仮面を使わず、素人っぽい。しかし、よく訓練された演技で人々を惹きつける。そこにあるものは、セライケラに見られるような緊張感ではなく、踊り手もそれを観る者も、そしてもちろんそれを捧げられる神々も、一体となって楽しむ解放感である。

マユバンジ・スタイル

マユバンジ・チョウのラーダとクリシュナの物語の舞踊の中で、ラーダの友達の乳しぼりの娘の1人とクリシュナの友人のカップル。2人ともなかなかの美少年である。

まるでミュージカルの一場面を見ているようなマユルバンジ・スタイルのチョウは、隅々にまで神経の行き届いた衣装と化粧が、厳しい練習によって鍛えられた踊り手の肉体と相まって構成された、みごとな踊りを次々と展開する。技巧的なソロ・ダンスや抒情的なデュエット、そして豪華な群舞やコミック・ダンスとそのレパートリーはたいへん広く、古典舞踊からバレエに到るまでの多様なテクニックが採り入れられている。

 

バリバダにあるチョウ・センターでは、毎日グル(右手前に後向きに坐っている)の厳し指導のもとに、綿密なスケジュールで訓練がおこなわれる。

 

 

参考文献

一柳智子「ネパール舞踊劇の世界」『日本人の原風景/聖峯冥郷やま』旺文社、1985年。
上田紀行『スリランカの悪魔祓い』徳間書店、1990年。
小倉泰・横地 優子訳『ヒンドゥー教の聖典二篇―ギータ・ゴーヴィンダ デーヴィー・マーハートミャ』東洋文庫(677)、2009年。
河野亮仙『カタカリ万華鏡』平河出版社、1988年。
古賀万由里『南インドの芸能的儀礼をめぐる民族誌』明石書店、2018年。
小西正捷「東インド仮面舞踊劇の伝統」季刊『民族学』31号、千里文化財団、1985年。
田中公明・吉崎一美『ネパール仏教』春秋社、1998年。
立川武蔵『ネパール密教』春秋社、2015年。
〃  「大地母神の姿」『変身変化』自然と文化19、1987年。
〃 「母神たちのコスモス」『すばる』8月号、集英社、1987年。
寺田鎮子「ネパールの柱祭り」『アジアの柱建て祭り』自然と文化61、日本ナショナルトラスト、1999年。
トゥラシ・ディワサ・ジョシー「ネパール・カトマンズの仮面舞踊劇」『アジアの仮面芸能』自然と文化15,日本ナショナルトラスト、1986年。
野村万之丞『マスクロード/幻の伎楽再現の旅』NHK出版、2002年。
姫野翠「チョウの魅力/東インドの舞踊」えとのす27号、新日本教育図書、1885年。
ビジャイ・マッラ著寺田鎮子訳『神の乙女クマリ』新宿書房、1994年。
福岡まどか『ジャワの仮面舞踊』勁草書房、2002年。
峰岸由紀「神がみの跳梁」季刊『民族学』16号、千里文化財団、1981年。
Chhau Dances of India, “Marg Vol. XXⅡ,” No. Ⅰ, 1968.

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2020.07.01