河野亮仙の天竺舞技宇儀⑳

チャイタニアからバウルへ

そもそも論からいうと、インドは口承文化の伝統が強い国。三千年前のヴェーダを今日も口頭で伝承しているブラーマンもいる。もっとも、ヴェーダ時代はインドの言葉を筆記する文字もなかったので口承によるほかない。

お釈迦様の言葉を残すにも、文字が使われてないので口伝えだった。節をつけて覚える。伝言ゲームのようにだんだん変わっていくから、時々、みんなで集まって答え合わせをする。それが仏典結集といわれているもので、原語はサンギーティ、一緒に歌うという意味だ。

歴史に残るインドの文字は、マウリア朝アショーカ王(在位BC 272-231)のいわゆるアショーカ・ピラーに記されたカローシュティー文字とブラーフミー文字。カローシュティー文字は右から左に書きアラム語系。ブラーフミー文字はアショーカ王がインドの言葉を表記するために学者を集めて作ったといわれる。元となる文字はあったのだろうが、証拠は残っていない。

石柱に彫ることができたから長く残った。乾燥したアフガニスタンなどで紀元前後のお経の断片で残っているが、それは白樺の樹皮、獣皮などに刻まれたもの。椰子の葉なども使われたが、暑くて湿気もあるインドでは百年二百年で傷んでしまうので、長く残ることはない。

紙というのは後漢の蔡倫が発明したといわれるが、インドで普及するのはそれから千年以上経ってのことである。奈良平安の日本の方が早く普及した。

書写、経典を写しなさいというのは、紀元後の般若経の時代からで、伝道・布教は、前回の馬鳴菩薩のように歌の力によるのが主力。経典と訳されるスートラは、本来、暗記できる範囲の短いものだった。

文字に表すことによって長編の経典の制作が可能になり、紀元後に般若経、次いで法華経、そして紙芝居的な維摩経などが次々と成立していく。暗唱する場合、いくら記憶力の強い人でも、法華経とか、2万詩節のラーマーヤナが限度である。8万詩節のマハーバーラタ全編の暗唱はできない。

口承の伝統も、グプタ朝以降に書写して保存されるようになるが、口頭伝承よりやっかいなのは「身体伝承」だ。

インド音楽も基本的には口頭伝承で、メロディーやリズムを口唱歌、口伝えで覚えてから器楽に置き換える。師から弟子へとほとんど一対一で、身体にしみこませるのが原則で、メモを取るな楽譜に写すなといわれ、秘儀的なところがある。

舞踊の場合も、舞踊譜を残すことも不可能ではないが、身体で覚えるよりほかない。ヨーガも図説され、写真解説されるが、師からエッセンスを学ぶもの。密教も、まさに、インド的な身体文化を受け継いでいくものだ。門外不出、許された者だけが秘儀を伝授される。

チャイタニアの汽車が来る

四十年も前に買ったバウルのレコードに「チャイタニアの汽車が来る」という曲が入ってる。民音のコンサートで聞いたと思う。民謡の「舟歌」が印象に残ったが、もちろん、八代亜紀の歌とは別物だ。
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この歌手は、バウル・ソングを歌う民謡歌手で、実際のバウルではなかった。歌の部分は伝えやすい。バウルは歌によって教えを伝えているので、歌手になるのが目的ではない。ちんぷんかんぷんでお経みたいだというが、バウルの歌がスートラ、マントラに相当し、比喩に満ちて隠語が使われるので、解釈できないほど難しい。

「チャイタニアの汽車が来る」という歌は、運転手はチャイタニア、機関士はオッドイト、改札にはニタイ・バブ、バクティという切符を持ってる人だけが乗って、天国まで行けるというようなことが歌われている。いくらお金持ちでもバクティ切符がなければ乗せませんよというわけだ。挙げられているニタイは兄のニトヤーナンダ、オッドイドはアドヴァイタ・アーチャーリアでチャイタニア派の三聖人。これは珍しく分かりやすい。

女性バウルであるパルバティ・バウルが採録・英訳し、さらに佐藤友美が日本語訳したバウルの詩が「大いなる魂のうた」に30編近く載っているので参照されたい。身体宇宙について語られた詩が多く、修行の階梯を経て初めて理解できるものなのだろう。修行体験も語られていて、貴重な本だ。
https://www.youtube.com/watch?v=1MwArrdpWMQ
http://tenziku.com/listentoyourownsong/

近年、パルバティ・バウルが来日するようになったが、一時期、バウルは入国できなかった。ほとんどがガンジャ、大麻の常習者だったからだ。ちょうど、ローリング・ストーンズが来日できなかったり、ポール・マッカートニーがマリファナ所持で捕まって留置所でイエスタデイを歌ったという頃の話ではないか。
https://ddnavi.com/news/264368/a/

では、バウルとは何者かというとこれが難しい。タントラ的な出家修行者の流れの中に位置するが、もはや、仏教徒ではなく、ヒンドゥーなのかイスラームなのか云々と議論される。それは後回しにして、先にチャイタニアの話から入ろう。

ジャヤデーヴァからチャイタニアへ

ジャヤデーヴァの後を受けて、ベンガルでは16世紀にヴィシュヌ派の聖者チャイタニア(1485-1533)が活躍した。もともとはビサムバル・ミシュラの名を持つが、クリュナの化身とされ、クリシュナ・チャイタニアと呼ばれる。ベンガル読みでチョイトンノ。先輩の頓宮勝が「チョイトンノ伝」を翻訳している。

ベンガル・オリッサ地方で仏教を信奉するパーラ朝が衰え、カルナータカ地方からサマンタセーナがやって来てセーナ朝が始まり、12世紀にはヴィシュヌ信仰が盛んになる。

16世紀初めに、熱狂的なクリシュナ・ラーダー信仰を持つチャイタニアがブリーを訪れて定着する。「ギータゴーヴィンダ」を信奉していた。儀礼主義を廃して、歌(サンキールタン)でクリシュナとラーダーに愛を表現した。ハリの名を唱える(ハレ・クリシュナ)ことが救済の道として、人間は皆兄弟とカーストも認めなかった。

クリシュナ(性力シャクティを持つ者)とラーダー(シャクティ)との分離できない関係を、本来、一つであるにもかかわらず、嬉戯(リーラー)を味わうために、異なった二つの身体となると伝記の「初期の嬉戯」の第四章に書かれている。チャイタニアはクリシュナであり、また、ラーダーでもあり、二人が一つの身体になったと説明される。

「チョイトンノ伝」には、信者を引き連れて熱狂的に歌い踊ったことが記される。遊行して托鉢し、お金もたくさん集めたという。この新興勢力の喧噪は伝統的なブラーマンなどからは煙ったがられた。

日本だと鎌倉時代の捨て聖、一遍上人(1239-1289)の踊り念仏を思わせる。大勢の乞食に近いような姿の男女を引き連れて踊り狂う。女もあられもない姿で踊るので、一種のストリップ興業でもあった。

「チョイトンノ伝」「中期の嬉戯」第13章は「山車を先導する宗師の踊り」、第14章は「春祭りの山車巡行」と題し、ジャガンナート神の山車祭りの模様が描かれている。第16、17章には、ヴリンダーヴァンへの巡礼の様子が記される。

チャイタニアの弟子達は、クリシュナがラーダーと恋の戯れをしたブラジ地方に移住するグループとオリッサにとどまる者と二つに分かれた。ブラジ地方の宗教音楽については田中多佳子「ヒンドゥー教徒の集団歌謡―神と人との連鎖構造」に詳しい。

タントリズムとバウル

ベンガル地方の仏教タントラの伝統とクリシュナ・ラーダー信仰が融合し、女性神としてのシャクティ、また、その活動エネギーでもある性力シャクティの信仰が重視される。左道密教的なサハジャ(倶生乗)派が生まれ、この流れがバウルにつながる。基本的にはタントリックなヨーガの行者である。

奈良康明の論文「サラハパーダ作 ドーハー・コーシャ」から引用させていただくと、
「およそ8世紀より12世紀にかけては、中期インド語文学より新期インド語による文学への移行期である。その中にあって、仏教タントリズムのうちの一支流、サハジャ乗(Sahaja-yana)に属する師匠“Siddha, Siddhacarya”たちの手になる一連のcaryagiti及びdoha文学は時代的に古層に属し、後代のHindu及びJaina mysticism文学の先駆的役割を果たしている」

「仏教サハジャ乗の教義として、そのesotericな思想とsexoyogicな修行法は周知のことであるが、そのためにCaryagitiは殊更に謎めいた表現を用いる」

チャリヤーギーティは、文字通りには行の歌。ドーハーは一義的には二行連句の韻律をいうが、四行連句のものも含めて、サハジャの思想を歌うもの。

何も持たない

教団を持てば、寺院建立、教団運営に経費が必要だが、バウルは簡素な庵に住むだけで門付けによって賄い、もっぱら自己の心身、身体の内的な宇宙と向き合う。また、密教のように曼荼羅を築くこともない。護摩を焚くような儀礼もしない。

10世紀頃からナータ派が台頭し、12、3世紀にゴーラクシャナートの大成したハタ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガの技法によってチャクラを目覚めさせるという修行をバウルも行うが、ナータ派の指導者ナータの様に呪術者、超能力者的な色彩はない。ゴーラクシャナートもベンガル地方で活躍したといわれるが、その系統を名乗ることはなく、バウルはナータ派とは一線を画しているようだ。

イスラームの侵入

8世紀になると西北インドからトルコ系のイスラーム勢力が入ってくる。11世紀にはガズニ朝、そしてゴール朝が北インドに進出する。13世紀初頭に、イスラーム教徒はベンガル、ビハールの仏教寺院を破壊する。1203年のヴィクラマシラー寺院陥落を以て、インド仏教が滅んだとされる。セーナ朝も崩壊する。

1204年、バクティヤール・キルジのノボディープへの侵攻によって、ベンガルにイスラーム王権の支配が及ぶ。1576年になると、ベンガルもムガル帝国に支配される。ヒンドゥーの宗教文化の中で、イスラーム教の聖者スーフィーがその信仰を広めていく。聖者が祀られた聖者廟が信仰の拠点となる。

インド映画でよく、女性が困ったときに村の寺の神様の前で、ぶつぶつ独り言をし、祈っている光景を見る。ベンガルのモスリム社会で、女性はモスクではなく聖者廟に通い願掛けをしたり、女同士でおしゃべりしたりする。

そこに導師ビールや修行者、呪術者であるファキールが住んでいることもある。バウルの庵もそれに相当する。そんな土壌の中で、民衆レベルでバウルがイスラームであろうがヒンドゥーであろうが関係ない話だ。

そもそもバウルとは

バウルの語は、例によってサンスクリット語にルーツを求めるので、vatula(風狂)、vyakula(思い乱れた)に由来するという。それはラーダーがクリシュナに恋い焦がれて狂った様子といわれる。たいていの場合、一弦琴(エークターラ又はゴピチャンドラという)を手に、ドゥギという小さな太鼓を腰に、足にはグングル、鈴を結びつけて歌い舞う。

ごく手短にいうと、偶像崇拝をしない、教会や寺院などの組織はない、文書化された経典類はない。群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、一弦琴とたたき上げの歌のスキルだけがバウルの武器。フリーランスの修行者だ。

心の内の神と一体となることを目指し、歌い、舞い踊って食を乞うナーダ・ヨーギー、音の行者である。バウル教でも○○教でもなく、カーストも認めない。インド古来の苦行者、托鉢修行者、世捨て人の伝統を継いでいる。

2005年にバングラデシュのバウルは、インドのクーリヤーッタム、日本の歌舞伎とともに、ユネスコの無形文化遺産に選ばれている。私は、悉曇・声明を無形文化遺産にしようといってるのだが、誰も賛同してくれない。

バウルとタゴール

三、四十年前、カルカッタには、結構、立ち寄って滞在したが、バウルと出会ったことはない。サダル・ストリートで見たとか、列車の中で乞食をしてるのを見たという友達もいるが、果たして彼は切符を持っていたのだろうか。

バウルが有名になったのは詩聖タゴールのおかげである。タゴール家は、今日のバングラデシュにあるクシュティア地方に広大な所領を有していた。タゴール家は、クシュティア近郊のシライドホに別荘を持ち、事務所から数キロの所に伝説的なバウル、ラロン・シャハの修行道場があった。

シャハという姓はムスリムの名前なのだが、生まれはブラーマンに次ぐ書記カーストのカヤスタの家だといわれている。

ラビンドラナート・タゴールは1876年に、初めてこの風光明媚なクシュティアを訪れて気に入り、29歳になった1890年に、父からクシュティアの所領の管理を任され、家族とともに暮らした。

実際に、ラロン・シャハとタゴールが会ったという記録は存在しないのだが、出会っていたと思われる。多くのバウルと交わって、ラロンの作った歌にも十分親しんでいた。自分の作った詩をバウルの歌のメロディーで歌ったりした。

タゴールは、アジア初のノーベル賞受賞者であるが、ボブ・ディランより先に文学賞を受賞したシンガーソングライターということになる。あまりに多彩で詩作や戯曲、小説はもちろんのこと絵も描いた文人だが、自らの戯曲に出演し、玉を転がすような美声で歌も歌っている。

インド国歌とバングラデシュ国歌を作っている。タゴール・ソングにもバングラデシュ国歌にも、バウルの歌の影響が指摘されている。
https://www.youtube.com/watch?v=fEDzWx6JIiY&t=878s

川内有緒『バウルの歌を探しに』幻冬舎文庫、2015年。
クリシュノダーシュ コヴィラージュ著 頓宮勝訳『チョイトンノ伝1・2/クリシュナ信仰の教祖』東洋文庫、2000年。
佐保田鶴治『続ヨーガ根本教典』平河出版社、1978年。
立川武蔵『ヨーガと浄土』講談社メチエ、2008年。
田中多佳子『ヒンドゥー教徒の集団歌謡―神と人との連鎖構造』世界思想社、2008年。
戸川昌彦『聖者たちの国へ/ベンガルの宗教文化誌』NHKブックス、2008年。
  〃  『宗教に抗する聖者/ヒンドゥー教とイスラーム教を巡る「宗教」概念の再構築』世界思想社、2009年。
奈良康明「サラハバーダ作ドーハー・コーシャ<翻訳およびノート>(1)」『駒澤大学 仏教学部研究紀要』24号、駒澤大学、1966年。
  〃  「サハジャの神秘主義」『密教の歴史/講座密教2』春秋社、1977年。
  〃  『仏教史1』山川出版社、1979年。
パルバティ・バウル著佐藤友美訳『大いなる魂の歌/インド遊行の吟遊詩人バウルの世界』バウルの響き制作実行委員会、2018年。
ラーマクリシュナ・G・バンダルカル著島岩・池田健太郎『ヒンドゥー教』せりか書房、1984年。

更新日:2019.11.26