河野亮仙の天竺舞技宇儀⑧

ラヴィ・シャンカルとウダエ・シャンカル、そしてアンナ・パヴロワ

今ではノラ・ジョーンズの父親として有名

インド音楽を世界に広めて、多くのインド・ファンを獲得したラヴィ・シャンカル(Rabindra ShankarChowdhury1920-2012)について書こうと、資料をアマゾンで探した。現在CDとして手に入るものは少ない。他のインド音楽のアーティストも国内盤として販売されたもの以外は、ほとんど入手できない。
LPレコードはマニアの間で、少々、流行っているが、ラヴィ・シャンカルはカラヤン同様、LP時代の花形だった。カラヤンよりフルベンさんとかそれぞれ贔屓の指揮者がいるように、マニアほど他のシターリストを評価する。
アーラーパナというリズムの伴わない序奏部だけでも何十分、興が乗れば何時間も一晩中演奏するインド音楽の「伝統」の中で、片面二十分のLPに一曲、二曲を収めるという技を開発したのがラヴィ・シャンカルの功績であった。
また、サタジット・レイの映画に音楽を付けたのも、今から考えると偉業である。それができたのも、兄の一座で劇版をやっていたからだ。踊りの伴奏として尺に収めることが身についていた。映画もまた、ベンガル・ルネッサンスの成果であり、インド・ルネッサンスへと変化していく。
かつて、池袋のWAVEで民族音楽のCDが手に入ったが、店じまいしている。民族音楽、ワールド・ミュージックが流行って『包』と『ノイズ』があったが、とっくの昔に廃刊してしまった。あのブームはどこへ行ったか、韓流になって消えてしまったのだろうか。

昭和47年に発刊された『ラビ・シャンカル/わが人生わが音楽』は、その当時に買ったが、河出書房新社から再刊になった。英語版が2007年に増補され、ノラ・ジョーンズのことも書かれている。今や彼女の方が有名だ。旧版「シタール奏法の手引き」の部分が、新版では「今、考えること」に差し替えられている。
ラヴィは、元号でいうと大正9年生まれということで、わたしの父母の世代だ。インド独立の年に27歳というとイメージがわくだろうか。
米アマゾンを見ると、”Yours in Music”という自伝の漫画版のようなものがある。漫画版では、バングラデシュ・コンサートまでフォローしている。さらに探すと米アマゾンに”RAGA MALA”というタイトルで、もう一冊自伝があった。ジョージ・ハリソン編ということで、ジョージの序文も載っている。子供の頃の楽器を演奏している写真や衣装を着て踊っている写真が多数掲載されていて貴重だ。

わたしの知りたかったのは、その娘ノラ・ジョーンズ出生の秘密というような女性週刊誌的なことだった。ラヴィ・シャンカルの娘には、これまたシターリストのアヌーシュカがいる。この方はどなたの子なのかなあと。ずっとウォッチしていた方ならご存じなのだろうが。

華麗なる芸能一家

ラヴィンドラはベンガル語読みでロビンドラなので、ラヴィ(サンスクリット語で太陽)は子供の頃、ロブと呼ばれていた。
娘の従兄弟にはアーナンダ・シャンカル(1942-1999)というシターリストがいて、ポップなことをやっていた。ジミ・ヘンドリックスとも共演したともいわれる。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ライト・マイ・ファイア」をアルバムに収める。長兄ウダエの息子なので娘たちとは四十も年が違う。
ウダエの娘、アーナンダの妹にママタ・シャンカルがいる。ウダエの死後に生まれた。サトジット・レイなど多くの映画に出演しているが、ウダエの後を継ぎ、舞踊団を率いて来日をしたこともある。見てきました。
日本公演はカラオケだったと思うが、おそらくアーナンダらと共にツアーをしていたのだろう。ラヴィの次兄ラージェンドラと結婚した歌手のラクシュミー・シャンカルもツアーに参加していた。ファミリー・ビジネスである。

ラヴィは、師匠であるアラウッディン・カーンの娘、つまり、サロードのアリ・アクバル・カーンの妹であるアンナプールナーと結婚している。彼女の方がラヴィよりうまいとまでいわれたシターリストだ。息子が生まれ、やはり、シターリストになったが、若くして、1992年に亡くなっている。
おぼろげな記憶では、わたしは1968年の来日講演に行ったはずだが、その時の伴奏のタンブーラは、次ぎの奥さんのカマラーだったと思う。
アメリカの音楽プロデューサー、インド音楽のコンサートを企画したのではないかと思われるが、スー・ジョーンズとの間に、1979年、娘が生まれる。ノラ・ジョーンズ(Geethali
Norah Jones Shankar)だ。ラヴィ・シャンカルが去った後、スーは田舎に帰り看護婦として生活を支える。ひとりぼっちで家に残されたノラは、母親のコレクション、ジャズやソウルのレコードを聴きあさったという。母の持っていた八枚組のビリー・ホリデイのレコードを愛聴したそうだ。

父はいなくても娘は育つ

ラヴィとスカニヤー・ラージャンとの関係も続いていて、1981年にアヌーシュカが生まれる。
ラヴィ・シャンカルは聖人イメージで捉えられているので、女性関係について記述されることはあまりなかった。旅から旅へと家に居着かず、決してよい父親ではなかっただろうが、父はいなくても娘は育つ。二人の娘は六十歳前後にできた子だ。晩年は二人の娘と仲良く接していた。
ラヴィ・シャンカルに弟子入りしてインド音楽を習おうと思っていたジャズ界の聖人?ジョン・コルトレーンだって離婚再婚している。何人か彼女がいたようだが、コンサートに一緒に行けるということでピアニストのアリスと結婚し、マッコイ・タイナーの後釜に座った。息子にラヴィと名付け、彼もトップ・テナーの一人だ。

ノラ・ジョーンズは、グラミー賞を何回も受賞したという以上に優れた音楽家だ。だらっと脱力しているところがインド的かと思う。顔もメイクによってインド人にも何人にも見える多面的な人だ。近年、横顔など父親に似てきたと思う。やはり、プライベートは公表されていない。
博物館的なジャズではなくて、カントリー風であって、またキャロル・キング的にポップなソウルだけれど、これが最先端の音楽、ジャズの終着駅の一つだと思っている。
ラヴィ・シャンカルはユーディ・メニューインと共演して東西融合を試みたり、邦楽(尺八の山本邦山、琴の宮下伸)と共演したりする先駆者であったが、ノラ・ジョーンズの場合は、子供の頃からあらゆる音楽の要素を吸収した、生まれついてのフュージョンだ。

ラージャスターンの宮廷に仕えた父

父シャーム・シャンカル・チョードリーは今のバングラデシュに生まれている。母ヘーマーンギニー・デーヴィーとの間に生まれた長男のウダエは、1900年8月23日生。
父シャームの生年は知られていないが、二十歳で十一歳の母と結婚したとされるので、1878年生まれのジョージ・アルンデール、ルクミニー・デーヴィーの夫と同世代ということになる。日本の坊さんでいうと、大谷光瑞が明治9年、昭和時代に清水寺で年末に大字を揮毫していた大西良慶が明治8年の生まれである。

父シャームは名門のブラーマンの生まれ。若い頃、バナーラスでサンスクリットを学び、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダの讃歌の唱え方を習い、また、ドゥルパドなど声楽も学んだ。カルカッタ大学に進み、ロンドンに留学する超エリートだ。インド思想についての著書もあり、ニューヨークやコロンビア大学でも講じたという。
1905年にはラージャスターンにあるジャラーワル藩の首相として仕えたとされる文人政治家である。母も大地主の娘で、また、王妃と仲がよく、様々なプレゼント、金銀、宝石や豪華な衣装などをトランク二、三個分賜った。歌がうまかったという。しかし、1917年、あるいは翌年くらいに、父は第二夫人としてイギリス人のミス・モレルを迎え、母と一緒には住んでいなかった。

画家になるはずだったウダエ

ウダエが十四歳の時、第一次世界大戦の勃発とともに、父はロンドンから帰国する。ウダエも藩王に絵の才能を認められ、十八歳の時、J.J.スクール・オブ・アートに進学する。宮廷で優れた音楽やカタック、様々な民族音楽や各地の舞踊も見聞きしていた。

1920年4月7日のバナーラス、ラビンドラ・シャンカルは兄弟の末っ子として生まれる。しかしその直前に、父はカルカッタへ、そして、ロンドンへと旅発つ。バリスタだった。コーヒー職人ではなく、法廷弁護士のことをいう。
父はロンドンに渡って法律の仕事をし、呼び寄せた長兄ウダエは王立芸術大学で絵画を勉強する。バナーラスに残された親子は貧しい暮らしを強いられ、母は、しばしば質屋通いをして、宝石や金糸のサリーなどを処分した。ラヴィが初めて父に会ったのは八歳の時だという。
上から、ウダエ、ラージェンドラ、デーベンドラ、ブーペーンドラ、ラビンドラという順になる。よくあるどこかで聞いたような名前だが、Udayaは上昇、繁栄を意味する。もっともウダイプルで生まれた事による命名だそうだが。中の三人はそれぞれ、人間の王、天上の王、大地の王という意味になる。ブーペーンドラは1926年に亡くなっている。

詩聖タゴールはラビンドラナート、その父はデベンドラナートであるから、同じベンガル人としてタゴール・ファミリーを尊敬していたのだろう。家には蓄音機があってタゴールの歌や宗教歌などを聴いては歌っていたという。習うでもなく小さなシタールやハーモニウムを弾いて遊んでいた。

ウダエ・シャンカルの舞踊家デビュー

ウダエは、もともと美術を志していた。子供らしい遊びに熱中し、踊りを見に行ったことはあっても習ったことはない。1920年8月、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートに入学し、サー・ウィリアム・ローゼンシュタインについて絵を学ぶようになる。銀賞を受賞するなど有望視されていた。その頃、ラヴィは赤ちゃんである。

父シャームは、1915年以来、インドの音楽や舞踊をイギリスに紹介するプログラムを手がけていた。父がロンドンでチャリティ・イベントを行ったとき、ウダエに協力を求める。世界で最初のインド・バレエといっているが、要するに、インド神話などをテーマにした舞踊劇である。それまでに接してきたインドの舞踊と西洋のバレエを融合する試みだった。
大英博物館にはインド由来の至宝が収められていて、それらを学んでいるウダエの方が豊かな発想があると考えたのだろうが、その本人が踊ることになってしまった。クリシュナは笛を持ってこんな感じ、ハヌマーンの動きはこれこれ、シヴァ神はこういう風に踊るんだと身振り手振りでやっていると、こりゃいける、お前さん踊りなさいということになったのだろう。

絵を描くためには、実際にそのポーズをとってみた方が重心バランスなども分かる。その逆もしかりで、日本には美大出身のインド舞踊家が何人もいる。河鍋暁斎も能狂言を相当稽古していたそうだが、重心の落ちた舞い姿の絵は秀逸である。
1923年の五月、ロシアの伝説的なバレリーナ、アンナ・パブロワが、コヴェントガーデン王立歌劇場でインド・バレエを偶々見ることになる。彼女自身もインドに取材したテーマを企画していた。ウダエがクリシュナ、アンナがラーダーで上演することになってしまった。
ウダエは音楽こそ習ったものの、踊りは習ったことはない。ひょうたんから駒で、世界の舞台に飛翔していったのだ。世の中何が起こるか分からない。

アンナの夢、ルクミニーの夢

これをアンナ・パブロワの方から話すとこうなる。
アンナは1881年、サンクトペテルブルクの貧しい家に生まれる。母は洗濯屋を経営し、身を粉にして働いた。実の父については謎につつまれている。病弱だったようだ。肺炎をこじらせ五十年の生涯を閉じた。
九歳の時に、『眠れる森の美女』を見て感動する。おそらくは、その美貌と資質を認められてのことだろう、十歳で帝室バレエ学校に入学する。優秀な成績でマリインスキー・バレエに入団する。
1907年の慈善公演で『白鳥』を踊って話題となり、これが後に『瀕死の白鳥』と呼ばれる代表作となる。

1908年より、意欲的に海外公演を行い、さらに、マリインスキー劇場に席を置きながら他の団体への出演を希望したので、退団することになる。1911年にはパヴロワ・カンパニーを結成し、翌年、ロンドンに移住する。アンナも荒野を行く開拓者だった。

1922年には、早くも日本を訪れ、これが日本においてバレエが普及する契機となる。今年の十一月末にマリインスキー・バレエが来日し、その中には二百年の歴史の中で、日本人として二人目のバレリーナ、永久メイが参加している。

アンナとインドとの関わりは『インドの舞姫(ラ・バヤデール)』を上演した事による。デーヴァダーシーの物語だ。また、1922年にインドや日本を旅してその風物や踊りに惹かれる。カルカッタでノーチ・ガールの粗野な踊りも見ていて、帝政ロシアの厳しい教育を受けてきただけに、インドにはちゃんと舞踊を教える学校はないのかと嘆いたそうだ。もちろん、当時インドには音楽を教える学校もなかった。
インドではアジャンタの壁画を見た。これをテーマに踊りたいと考えた。また、インドの結婚式にも招かれていて、再現してみたいと思ったようだ。これが組曲『オリエントの印象』につながる。

インド人の多いロンドンで、上演のために作曲家と振付師を探していた。カンパニーの音楽家と振付師では手に負えない仕事だった。インド人ピアニストのバネルジー女史に作曲を依頼する。すると振付師にウダエ・シャンカルを推薦した。世紀の出会いである。
ウダエが構想してアンナと共に主演し『ヒンドゥー・ウェディング』『クリシュナとラーダー』が制作され、『オリエントの印象』に組み込まれる。九ヶ月のツアーが行われ、カナダ、アメリカ、メキシコ、南アメリカを回った。
アンナはまた、タゴールに手紙を書いて彼の作品を上演したいと考えたが、シャンティニケタンは遠かったので会うことができず、実現しなかった。

サンスクリット学者で神智学徒でもあったニーラカンタ・シャーストリーの娘、ルクミニー・デーヴィーは、後の神智学協会会長ジョージ・アルンデールと結婚する。神智学協会の仕事を兼ねてのことか、二人はオーストラリアに向かう。ジャワにも神智学協会はある。
それは1929年のことだった。ジャワからオーストラリアに向かう船に乗り込むアンナは二人に出会う。ルクミニーはバレエを習いたいと志願する。しかし、アンナ・パヴロワはインドのことも知っていたので、あなたはインドの伝統を勉強しなさいと諭す。そこから、ルクミニーの夢が開いていくのであり、インド舞踊の殿堂カラークシェートラの創始者となる。

舞踊家になるはずだったラヴィ

1929年に、ウダエは一時帰国してインドの伝統を見て回る。北インド育ちの彼は、特に、南インドの伝統、バラタナーティヤムやカタカリを研究する。1927年にケーララ・カラーマンダラムは創設されているので、クーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムも見たはずだ。カラーマンダラムに倣って、自ら舞踊学校創設の夢も抱いたことだろう。インド各地を回って楽器、特に太鼓を集めてきた。

構想を固めると、彼は家族を説得にかかる。兄弟のみならず、従兄弟やら叔父やら、音楽家も交えて一座を組んでパリで、ヨーロッパで公演をしようというとんでもない計画だ。
当然、ラヴィも加わることになる。学校に通いながら、楽器を弾いたり踊ったりしたわけだ。日本でいえば、まるで大衆演劇の一座のようだ。子役は可愛い可愛いとウケル。まず、ボンベイに行き、スエズ運河を通ってベニスに着く。そして、汽車でパリに向かった。
1930年の秋、パリに着く。あらかじめ楽器や衣装などは送っておいて、無事に着いていた。家も借りてあった。着いてから慌ててリハーサルをするような次第である。
ラヴィはシタールやエスラージを弾き、タブラーも叩いたが、慌ただしい中で誰もまともには教えてくれない。とてもそんな余裕はなかった。この一座は8年ほど続けたが、演出、指揮して踊るウダエは神が現れたように見えたという。

また、1933年頃に一時帰国して11ヶ月間、公演をしたりインド各地で学んだりした。ラヴィはカルカッタでカタックを習い、また、シャンカラン・ナンブーディリにカタカリを学んだ。
ラヴィは初めてラビンドラナート・タゴールに会い、その一族はまるで王族のように見えたという。そしてタゴールに「お父さんやお兄さんのように偉くなりなさい」と励まされた。

1935年頃、世界ツアーの計画を立てていた。ビルマからシンガポール、マレー、香港、日本を回り、そこからサンフランシスコに渡って、ヨーロッパへという大計画だ。だが、シンガポール滞在中に父がロンドンで死亡という電報を受けて、すぐインドに帰国することになる。
体制を整え、ボンベイで数週間リハーサルをして、カイロ、アレクサンドリア、テルアビブ、ギリシア、ブルガリアを経てヨーロッパへというツアーを組む。師となるアラウッディン・カーンも同行した。アリ・アクバルも同行する予定であったが、ラヴィより二歳下のため、母親の元に残すことになった。ラヴィは息子のようにガイド、通訳をして助けた。音階や練習曲のレッスンを初めて受けた。
音楽と舞踊の両方を熱心に学んでいたが、師が先に帰国した後、ソロ・ダンス「チトラセーナ」でデビューし、批評家から絶賛される。この時は舞踊に傾いていたのではないか。
1938年、ウダエはアルモ-ラに一大芸術センターを設立する。そこに、カタカリの巨匠シャンカラン・ナンブーディリを招いて教えを乞う。舞踊劇を創作するには何よりカタカリのテクニックが必要であった。
バラタナーティヤムのカンダッパン・ピライ、マニプリーのアモービ・シンハも招いて総合的に研究し、新たな舞踊を創作しようとする。
ウダエは弟がスターダンサーとして一座に残るものと思っていたが、文化センター設立準備の間はアラウッディン・カーンの元で音楽を勉強していいよとマイハルへ送った。ラヴィも正式に音楽を習うことになる。再会したアリ・アクバルのサロードは目覚ましく進歩していた。
妹のアンナプールナーと共に三人で習う。他にも入門する弟子は少なからずいたが、あまりの厳しさに、すぐに逃げ出したという。数年経って結婚を勧められてアンナプールナーと結婚する。1939年12月にアラハバードで行われた音楽会議でアリ・アクバルと共に演奏し、初めて演奏家として認められる。
アラウッディン・カーンはどんな楽器でも弾けたといわれるが、サロード奏者として知られる。シタールとヴィーナーは弾かなかったという。アマゾンでCDを探したがない。その代わり、youtubeに音楽が上がっている。さすがに映像はないようだ。

 

シャンカルはシタール奏者なので、それではどうするかというと、基本的には口移し、つまり歌って聴かせたのを楽器で再現することになる。インド音楽の基本は声楽である。師の教え方は実に厳しく、息子のアリ・アクバル・カーンは失敗すると木に縛りつけられたという。
それに対して、ラヴィ・シャンカルにはあまり厳しくしなかったそうだ。自分の正統の弟子というよりは、別の役割を期待していたのであろう。師の晩年の弟子であるニキル・バネルジーの方がシタール奏者としては評価されている。

1957年のヨーロッパ・ツアー、さらに、1961年から長期にわたるアメリカ・ツアーに出かけ、ラヴィはシタール奏者として世界的に知られるようになる。我々はビートルズの「ノルウェジアン・ウッド」によって、シタールという楽器とラヴィ・シャンカルの存在を知る。「ノルウェーの森」として知られるこの曲は、1966年末発表のLP「ラバーソウル」に収められている。それはジョージ・ハリソンがラヴィに出会う前、すなわち、シタールを習わないで弾いていた。

ロックとインドとの関わりについては、こちらの星川京児の連載を参照してほしい。
http://www.enmeiji.com/hoshikawa/vol001.html
わたしも、昔、ジョージ・ハリソンとインドについて書いたことがある。サイケデリック編5だ。
http://www.geocities.jp/charmant09/bo12.htm#040329
アラウッディン・カーンの厳しさについては、後藤よみの書いたものがWeb上に残っている。『包』からの転載である。このペンネームは、星川と永井保が共同で使っていたが、この書きぶりは永井ちゃんかと思う。同い年なのに共に亡くなってしまったので確かめようがない。
http://www.sehouse.co.jp/story/story_1.html

1967年モンタレー・ポップ・フェスティバル、1969年ウッドストック・フェスティバルによって、ラヴィ・シャンカルのシタールはロック少年に認知される。クリームを聴いてエリック・クラプトンを目指していたギター・キッズが、シターリストになるつもりでインドを志した。シタールこそ弾かなかったが、わたしをインドに導いたのはラヴィ・シャンカルである。

バッハの「無伴奏チェロ組曲」は、コマーシャルに使われたくらいよく知られた曲だが、パブロ・カザルスの「無伴奏チェロ組曲」を聴いたことがあるだろうか。そそり立つ岩のように峻厳で荘厳だ。それと比べると、ヨーヨー・マは軽やかで、全くポップスである。そういう意味でラヴィ・シャンカルのシタールはポプュラー音楽だ。シタール、インド古典音楽が世界的になるというのはそういうことだ。
もっと分かりやすくいうと、ラヴィ・シャンカルはシタール界のエリック・クラプトンである。クラプトンが正統なブルースの継承者であるかはさておいて、世界にブルースを普及させた功績は、第一にクラプトンに帰せられる。

ドゥルパドという声楽形式のダーガル・デュオが家に泊まったことがある。高名なダーガル・ブラザースの一人とその甥でデュオを組んだ。その姉妹もタンプーラの伴奏で一緒にやってきて自炊した。菜食にもかかわらず、驚くほどギー(精製した無塩バター)をたっぷり入れて、こくのあるおいしい料理を作っていた。
それはともかく、リサイタルがあると朝からアーアーうなって音楽を作っているのに感動した。アーラープといって、無伴奏でラーガを形作っている部分を朝から練習して夜に望んでいる。それから何年かして、甥っ子の方だけが泊まったことがある。
デモンストレーションで披露した彼の技術には驚嘆した。音楽へ取り組む態度、集中度という点では、叔父に遠く及ばず、軽い。これは坊さんの世界でも、何もなかった時代の明治僧に平成の坊さんは全く及ばない。声明を聴いても厳とした世界がある。恐らく今の人の方がCDなどの録音から練習するからうまいのだろうが、世界が広がらない。これはやはり、仕方のないことか。

二十世紀初頭にベンガル・ルネッサンスを牽引したのはタゴール一族だった。文学、学術、宗教、音楽、舞踊、演劇、絵画で新しい時代を切り開いた。それを音楽・舞踊で受け継いだのがシャンカル一族だ。
ベンガルのブラーマン名であるチョウドリーより、サンスクリット名を名乗った。Shankaraといえば、シヴァ神のことも指すが、八世紀ヴェーダンダ哲学の巨匠シャンカラ・アーチャーリヤのことを想起する。サンスクリット、インド哲学を学び、仏教にシンパシーを抱く父親はこの汎インド的な名前を選び、世界中にインドの思想や文化を伝えることを志したのだろう。
長男のウダエはインド・バレエを創作し、外国に出ることによって、初めて「インド舞踊という概念」を作ることができた。その作品”Kalpana”の一部はYoutubeで見られる。ラヴィは、まさに、西欧世界へのインド音楽の伝道師であった。神秘的で宇宙的な奥行きのあるインド音楽の秘密を語った。それ以前のインド音楽家は英語を話せなかった。

伝統を守る、師匠のやっていることをそのまま真似して受け継ぐというよりは、インドという伝統の中に生きている自分が、海外で刺激を受けて表現する音楽・舞踊であった。
ラヴィが伝統を破っているといわれることもあるが、そのことは師匠のアラウッディン・カーンもいわれていた。
アラウッディンは、リサイタルに若きラヴィを連れ、ステージの後ろに座らせていた。時々、ラヴィに譲って演奏させ、興が乗ると二人で合奏する。それがジュガルバンディと呼ばれる、ラヴィとアリ・アクバルのバトルのような協奏形式に発展する。伝統も何も、どのみち誰かが、最初に始めたことを受け継いでいるだけのこと。インド音楽がインダス文明の時代にあったわけではない。
ピアソラも、はじめは「そんなのタンゴじゃない」といわれていたが、今ではアルゼンチン・タンゴというジャンルを超えて愛されている。ラヴィ・シャンカルのロック・フェスティバルでの演奏もサイケデリック時代の名演だと思う。

総じて見ると、シャンカル一族はいろいろな意味で親子で似たようなことをやっていた。インドと異文化との出会い、融合の中でノラ・ジョーンズが出生したのは興味深いことだ。文化も人間も外の世界と接触して、新しい優れたものが生まれる。単為生殖では遺伝子コピーのミスが増え、新しい環境に適応できなくなる。異質な遺伝子を求めて人は旅をする。

参考文献

ラヴィ・シャンカル著小泉文夫訳『ラヴィ・シャンカル/わが人生、わが音楽』河出書房新社、1913年。
Ravi Shankar ”RAGAMALA/The Autobiography of Ravi Shankar”Welcome Rain Publishers.1999.

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2018.11.26