河野亮仙の天竺舞技宇儀③

第三回 ATPAとDr.アワスティが風を起こして

アトパって何だ

 国際交流基金は、1972年に外務省所管の特殊法人として設立された。アジアを重視し、文化交流を通じて国際相互理解と友好親善を促進することを目的として活動していた。海外に研究者や邦楽家、歌舞伎、能の役者を派遣し、同様に海外からも受け入れていた。

 小泉文夫は、1976年春、第一回アジア伝統芸能の交流~Asian Traditional Performing Arts(通称アトパATPA)の公演を行う。徳丸吉彦、山口修と共同で企画し、事前に調査旅行、公演と共にセミナーを行って記録し、事後には報告書を書くという学術的なものだった。国際交流基金と日本文化財団が共同で行った。

 第一回は「日本音楽の源流を探る」というテーマで、タイから、鰐琴、縦笛、三弦胡弓、フィリピンからガンサ(平ゴング)、鼻笛、マレーシアからサペー(琵琶)、インドネシアからはスンダ地方のカチャピ(琴)、スリン(縦笛)、胡弓を招くという器楽中心のプログラムだった。

 日本からはアイヌの口琴、琵琶、琴、胡弓、三味線の演奏家が参加し、交流が行われた。それぞれ派手さはないものの、繊細な響きに聴衆は聴き入った。特に、インドネシアのトゥンバン・スンダといわれるスタイルは、日本の都節や沖縄音階に近い歌が歌われるので、日本でも愛好家が増え、日本人による演奏グループもできた。

 第二回は「アジアのうた」ということで、1978年にビルマ、インド、イラン、モンゴルから参加。ビルマの繊細な音楽、ベンガル民謡やバウルの一弦琴による歌と踊り、イランの古典楽器と独特な声楽のテクニック、モンゴルの追分のような民謡オルティンドー、喉歌ホーミーなどが紹介された。今やバウルをフォローする研究者やパフォーマー、ホーミーを得意技とする巻上公一や坂田明がいる。

 それらは分かりやすい形で民音のコンサートでも紹介された。音楽の現場では、こうしたATPAなどでのアジアの芸能者との交流が蓄積される。

 1981年5月6月に行われた第三回ATPA「神々の跳梁」は画期的なものであった。ネパールからは仮面舞踊のマハカリ・ピャクン、インドからは東インドの仮面舞踊としてプルリアのチョウ、セライケラのチョウ、南インドのカルナータカ州からはヤクシャガーナの舞踊団が来日。ヤクシャガーナは仮面のようなメイクと大きな被り物、仰々しい衣装で知られ、隣のケーララ州のカタカリの影響で出来たという。

 演劇関係者に大きな影響を与え、ヤクシャガーナの演目の一つであったアビマニュの物語は、横浜ボートシアターで「若きアビマニュの死」として取り上げられ、よく知られている。

ヤクシャガーナの一座が次の公演地に向かうため、衣装もメイクもそのままでトラックの荷台に載って出発。カルナータカ州、85年1月。

BHUのこと

 わたしはこの時点で、バナーラス・ヒンドゥー大学(以降BHU)に留学中であった。しかし、この年の8月にBHUで催された国際サンスクリット学会において、ATPAと同じく、カラントの主宰するヤクシャガーナの演目「シーター姫の誘拐」を見ることが出来た。

 また、サンスクリット劇を伝承するケーララのマヌ・マーダウァ・チャーキアールの演舞を見ることが出来た。さらに、後に盟友となるカヴァラム・ナーラーヤナ・パニッカルの劇団による新演出のサンスクリット劇も目撃した。

 82年1月にわたしは帰国する。BHUの哲学科修士課程は途中であった。この大学はとんでもないところで、インドの日大といわれていた。留学手続きの書類が通って留学に至るまで二年かかった。しょっちゅう学生がストライキをやって休校になる。学内ではときどき発砲事件があったようだ。大学にはコンピュータがあったらしい。年中停電だし、しかも、真空管式なので球が切れていて使い物にならないと噂されていた。

 一年の課程を修了するのに一年半くらいかかる。修士課程二年の予定が三年も四年もかかりそうなので、途中で脱走した。二年半のインド滞在だが、最後の半年くらいはマドラス、アダイヤールにある神智学協会のゲストハウスに滞在した。マドラス大学の先生についてヴィシュヌ派パンチャラートラ派のテキストを読んでもらっていた。いい先生だった。

利賀フェスティバル

 帰国した夏、新聞を読むと利賀村にケーララから劇団がくるというので、国際舞台芸術研究所に問い合わせてみた。まさにパニッカルの劇団であった。彼は、元ケーララ州のサンギート・アカデミー所長。元全インドのサンギート・アカデミー所長だったスレーシュ・アワスティの声掛けで、第一回利賀フェスティバルにともに招かれ、レクチャー・デモンストレーションを行った。

 アワスティは、1982年から東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所所長・山口昌男に招かれ、客員教授として来日していた。小泉文夫とは1971年、インドネシアでの国際ラーマヤーナ・フェスティバルで出会っていた。76年にも来日して数週間をすごしたとき、小泉も世話をしている。何度も来日し、いろいろなきっかけを作ったトリックスターだった

  利賀村のイベントはとても豪華で、鈴木忠志演出「トロイアの女」ほか、寺山修司の天井桟敷ほか、外国の劇団に、ブータン王室仮面舞踊団、観世鐵之丞、観世栄夫、野村万之丞らが出演するという信じられないほどのものだった。当時のわたしは全く関心がなかった。インド一直線だった。

 パニッカルの一行ソーパーナム劇団は利賀フェスが終わってから、Plan-Bや森尻純夫率いる早稲田銅鑼魔館でもカタカリの公演を行った。カタカリの役者は一人で、ソーパーナムの劇団員が手伝うデモンストレーションであった。森尻の早稲田銅鑼魔館は、鈴木が利賀に移った後、早稲田小劇場の建物を引き継いだもので、下は喫茶店だった。

 83年8月の第二回利賀フェスにはオリッシー・ダンスのサンジュクタ・パーニグラヒが出演していて、これはNHKでも放映された。ちなみにサンジュクタは70年大阪万博のインド館にも出演している。

増上寺インド祭り

 83年10月、増上寺では有志によるインド祭りが行われ、サンジュクタの同窓、グル・ケールチャランの初期の弟子のクンクマ・ラールが出演した。数年にわたって日本で弟子を養成する。増上寺ホールには、ヴァサンタマラの娘であるシャクティ(バラタナーティヤム、クチプリ)が出演。

 第一回に参加した音楽家についてはプログラムに記載がないものの、ベンガル文学の翻訳をやっていた大西正幸がエスラージを弾いたのを覚えている。インド哲学の高橋明もシタールで参加した。シタール、タブラーほか何でもOKの若林忠宏、ヴィーナーの的場裕子、ムリダンガムの柴田典子が記憶に残っている。若林は80年、小泉文夫が留学したバトカンデ音楽院に赴き、シタール、サロードを習った。

 翌年のインド祭りでは、オリッシーのクンクマ・ラールが高見麻子、ミーナ(森田三菜子)ら数名の弟子と共に出演。バラタナーティヤムの高橋美都子(リーラー・サムソンの弟子)、カタックのアムリット・シュタインが踊った。

 音楽家としては、キショール・ゴーシュ(シタール)、M・チョウドリー(タブラー)、中村仁(シタール)、梯郁夫(サントゥール)、若林忠宏(シタール)、鈴木弥生(シタール)、佐倉永治(サロード)、鳥居祥子(シタール)、長谷川文隆(タブラー)、逆瀬川健二(タブラー)、荒井俊也(タブラー)が参加。

84年10月増上寺インド祭りにて増上寺ホールの模様。クンクマ・ラールの弟子5人が衣装も整わないままオリッシー・デビュー。扇の要を務めたのは高見麻子。

山口昌男とDr.アワスティ

 一方、山口昌男はAA研でスレーシュ・アワスティの公開講座を行う。ここには、民族音楽や文化人類学、演劇・舞踊関係者が集い、賑やかで面白い会だった。徳丸の教え子で、ATPAで研究や記録作成に関わっていた峰岸(畠)由紀は、この頃オフィス・アジアを立ち上げていた。大学の先生が休みとなる83年末から年始に、アワスティの立案でチョウ・ダンスの見学ツアーを企画した。

 峰岸自身は参加できなかったが、能楽を研究しているリチャード・エマートが事務局長格で加わった。団長格で小西正捷、それに音楽学者の姫野翠、小柴はるみ、金城厚、井上貴子、田中多佳子、田井竜一らとわたしなどが日本側から参加。

 もちろん、アワスティが解説者・通訳で、ミティラー美術のコレクターとして知られるO.P.レイが現地コーディネーターだった。外国からの演劇研究者フィリップ・ザリリ、デボラ・ネフやジョン・F・ケネディJr.、インドからはパルル・シャーというバラタナーティヤムの舞踊家らが参加していた。

  翌84、85年は、ケーララ・カルナータカを巡る旅で、テイヤム、ブータなどの祭祀芸能、カタカリとヤクシャガーナといった舞踊劇、ヤクシャガーナ人形、サンスクリット劇のクーリヤーッタムなどを見て回った。

 参加したのは、ひき続いてアワスティ、エマート、姫野、田井やわたし、演劇・舞踊研究の市川雅、石井達郎、宮尾慈良、歌舞伎研究の伊達なつめ(徳丸素子)、当時は横浜ボートシアターの演出助手をしていた都市論、社会学の吉見俊哉(後に東大副学長)らだった。

 わたしは、その後の知見も含め、88年に『カタカリ万華』(平川出版社)を上梓する。カタカリ万華鏡ツアーを主催し、文化人類学の鈴木正崇、嘉原優子、体育学(舞踊)の本田郁子らが参加。また、別の機会に現代人形劇センターの塚田千恵美らを案内する。

 先輩も後輩もケーララへカルナータカへと向かい、多くの人が舞踊を学び、芸能や武術カラリパヤットを研究するようになった。塚田はインドや東南アジアから影絵芝居、カタカリ人形、ヤクシャガーナ人形を招聘するようになる。

 1993年、郡司正勝が実行委員長として行われたJADEアジア国際舞踊会議には、再びヤクシャガーナが来日する。森尻純夫はそれを追いかけてカルナータカに向かう。

 二十年かけた研究の成果が『歌舞劇ヤクシャガーナ/南インドの劇空間、綺羅の呪力』として而立書房から2016年出版された。演劇の実践者らしい視線で書かれているのが興味深い。

 慶応大学の鈴木正崇ゼミ出身の古賀万由里は、このほど『南インドの芸能的儀礼をめぐる民族誌』という大著を著し、明石書房より2018年5月に出版した。これも二十年かけた大変な労作であり、しかも読みやすい。いわゆる「サンスクリット化」とかカースト論から入っているので、大学のゼミに入ったつもりでゆっくり読んでいくと楽しいと思う。

「ケーララの影絵芝居」→南インド・ケーララ州の影絵芝居。正式には49日かけてラーマーヤナ全編を語る。85年頃。 「グル・ケールチャランとクンクマ・ラール」→オリッシー・ダンスの師グル・ケールチャランとクンクマ・ラール。池袋西武デパートにあったスタジオ200にて。86年6月。

ATPAの余波

 ATPAの第四回は84年11月の「旅芸人の世界」。小泉亡き後、小沢昭一の司会・構成だった。インドからはラージャスターンの絵解き歌を伝えるボーパとブンデルカント地方の舞姫ラーイー。タイからはメコン河の歌師モーラム。韓国からは男子党ナムサダンが参加。

 第五回は87年9月の「アジアの歌・舞・歌」。中国雲南省から彝族・納西族の歌と踊り、日本からアイヌ古式舞踊、パキスタンのカッワーリー(ヌスラット・ファテ・アリー・ハーンほか)、トルコからはイスラム神秘主義の旋回舞踊といわれるメヴレヴィー旋舞が参加した。

  それぞれに大きな影響を与えながら、ATPAは五回で終了した。峰岸は引き続きオフィス・アジアで、インドからカタカリやクーリヤーッタム、オリッシーのグル・ケールチャラン、ザーキル・フセインとシヴクマール・シャルマなどのアーティストを招き、また、ネパール、ブータン、韓国などの演劇公演を制作した。

 インド祭りの会場に増上寺を選んだのはわたしで、当時、大正大学の真野龍海教授の尽力で可能となった。そのつながりで、クーリヤーッタム公演と韓国・鳳山仮面劇を増上寺大殿で行うことが出来たのは幸いであった。近年、お寺でのインド舞踊公演などが増えたのは喜ばしいことだ。

 1988年より佐渡では、鼓童を中心にアース・セレブレーションという大イベントが行われ、毎年、各国からアーティストを招いている。インドからはタブラーのザーキル・フセインらが参加していた。

 和太鼓の家元に生まれたパーカッションの仙波清彦は、1992年からシアター・コクーンのエイジアン・ファンタジーに参加する。もともとはピットイン・ミュージックの企画だったが、国際交流基金も協力し、95年、98年にはエイジアン・ファンタジー・オーケストラを率いて海外公演も行う。98年3月にはデリーとムンバイで公演を行っている。

 邦楽家はもちろんのこと、日本のジャズやロック、クラシックの演奏家、中国、韓国、インド、インドネシア、ベトナム、フィリピンの伝統音楽の演奏家や歌手が加わった。通訳・渉外兼みたいな役割で、バーンスリーの中川博志が参加した。彼は81年からバナーラス・ヒンドゥー大学の音楽科に留学していた。

 また、1993年3月には、日本武道館で真言宗豊山派による「千僧音曼荼羅」が行われた。豊山派伝統の「二箇法要付き大般若転読会」に佐藤允彦率いる楽団が参加した。和太鼓の林英哲、笛の一噌幸弘、サックスの梅津和時、パーカッションの高田みどり、YAS-KAZらが加わり、声明フュージョンの先駆けとなった。

 親戚が出演しているので、訪ねて行って会場に潜り込んだ。千人の僧侶による読経と法要に佐藤や林のオリジナル曲を加える、よく構成されたイベントだった。会場では千僧の大音声の間をぬって響きわたる、一噌の笛の音が印象的だった。読売テレビで放映され、CDやDVDとしても発売された画期的なイベントであった。

  その頃、演劇方面では野村万之丞が真伎楽のプロジェクトを進めていた。中国、韓国、インド、インドネシア・バリ、アフリカからも役者、舞踊家、音楽家を集めた壮大なプロジェクトである。インドからはカタカリ役者が参加した。構想十年の後、2001年10月、東京都庁前広場で上演したのを見た。2004年、万之丞の突然のがんによる死、わずか44歳で滞ったが、遺志を引き継いで2008年に北京公演が行われている。

 この頃にあちらこちらで勃発した気宇壮大な試みが、いわゆるバブルの崩壊、文化予算の削減によって失せてしまったのが残念である。

 ATPAのプログラムの中に、懐かしい手書きの「インド通信」87年8月号が挟まっていた。今年、これも終わってしまうのかと思うと、昭和も遠くなりにけりである。

 当時は「天竺南蛮情報」「スラット・バリ」「シルクロード通信」のほか、森尻も峰岸もミニ・コミを発行していた。みんなで発信して共振していた。これらについても、また機会があったら触れてみたい。

参考図書

伊藤公朗「ヒマラヤ音巡礼」鳥影社、2002年。

河野亮仙「カタカリ万華鏡」平河出版社、1988年。

渡辺建夫「つい昨日のインド」木犀社、2004年。

若林忠宏「アジアを翔ぶシターリスト」大陸書房、1985年。

更新日:2018.07.03