天竺ブギウギ・ライト⑰/河野亮仙

第17回 天竺ブギウギ・ライト

インド舞踊入門その4/アビナヤは猫に習え!?

 

やはり、入門講座といって始めても、わたしが書くとインド舞踊破門講座になってしまう。通説を否定しているからインド人には嫌われるだろう。

いわく、インド舞踊の歴史は3000年、バラタナーティヤムは起源前にバラタ仙が書いた『ナーティヤ・シャーストラ』に基づいています云々。これはカラークシェートラの教義のようなもので、これを守らないと破門される?

わたしのインド舞踊論の特徴は、この連載や去年出版した『万博の世紀のインド舞踊』に見るように、仏典を利用していることである。これはインド人や西洋の学者にはできない技だが、ちゃんとネタ元がいくつかある。

京都大学時代に、最もお世話になった梵語学梵文学助教授の小林信彦が、若手を集めてクシャーナ研究会というのを主催していた。評論家、オヨヨ・シリーズの小説家の小林信彦の名はペンネームで、当然、別人。

その研究会に仏教学の佐々木閑や平岡聡らの若き俊英が参加していた。40年ほど前の話だ。二人とも、今や60代で仏教学会の重鎮である。君のやることは面白いからどんどんやり給えと発表の場を設けた。

一般に、比丘の間では歌舞音曲禁止と思われているが、佐々木閑は律文献を読み解いて詳述している。NHKテレビでも般若心経などの仏教講座を担当した。

平岡聡は仏伝研究から始まって、浄土教を中心に幅広く啓蒙書を出したが、『言い訳するブッダ』(新潮新書)はゲラゲラ笑ってしまう傑作だ。あんな本を書いてみたいものだ。

クシャーナ研究会はわたしの卒業後のことであって、わたしは外野、インドに留学した。ご親切にそれからも報告書を送ってくださっていたが、それが活きている。

小林信彦「金剛界マンダラの内供養菩薩と芸能の関係」はきわめて有益であったが、お礼もいわないうちに、一昨年ご逝去された。桃山学院大学に移られてからは、小池誠を代表とするインドネシア研究のプロジェクトに参加し、「バリ島に伝わるサンスクリット文献」などの報告書もお送りくださった。「サンガが演劇にかかわっていた可能性―建前と食い違う実態―」という論文もある。

さらに、「空海のサンスクリット学習―現代に生きる神話―」では、当時の梵語に対する中国人、日本人の向かい方を考察し、司馬遼太郎のみならず仏教学者までもが支持する、空海はサンスクリット文献を読んだという通説を否定している。

大学時代は『バガヴァッド・ギーター』などを読んでいただいたのだが、今振り返ると、現在のわたしのアプローチに近いので驚く。先生のおかげです。奥様の小林明美も円仁の梵語学習についての論文を送ってくださった。

思えば京都大学、大正大学でお世話になった先生のほとんどは他界された。わたしの学生時代からマスコミで活躍され、長くお世話になった松涛誠達、上村勝彦、頼富本宏も早く亡くなられ、同世代で健在なのは立川武蔵、津田真一くらいだ。大先生に敬称略で申し訳ない。

サンギータとナータカ

『バガヴァッド・ギーター』のバガヴァッドは尊者、ギーターは歌、サンギータは一緒に唄うという意味だが、器楽も踊りも根本は歌で、サンギータの中に入る。ナータカが演劇なので、インドの公的な芸能研究所はサンギート・ナータク・アカデミーという。ヒンディー語では語末の母音が短い。

ナーティヤは演劇。演劇形態は美術も含めるので文芸の中で最高とされ、神に捧げる祭儀、総合芸術であるという。ヌリッタは意味がない純粋舞踊と訳す人がいるが、ストーリー性のない単なる動作からなる踊りのこと。

古典サンスクリット語劇においては、劇場や舞台の造りは簡素で書き割りもなく、大道具も発達していない。その分、演劇的表現として、手振りでいろいろ示す必要があったのだろう。サンスクリット語の劇といっても、言葉より身振りや顔の表情を楽しんでいた。たいていは叙事詩から取材しているので、話の粗筋はみんな知っている。単なる抽象的、あるいは情緒的な踊りならハスタ・ムドラーはあまり必要がない。

元々は座長が中心になって、その都度、小屋を組んだとも考えられ、座長を意味するスートラダーラは糸を持つ者という意味で、糸を使って測量し地割りした指物師、棟梁との説もある。

ナーティヤ・シャーストラ

スートラはお経というか、本来は簡潔にまとめられた要項。シャーストラは学術文献なので、『ナーティヤ・シャーストラ』は演劇書、芸能大全。

扱う範囲は広く、演劇の起源、劇場建築、舞踊、演劇上の表現術(アビナヤ)、仕草、用いられる言語、詩文の韻律や修辞法、それに対する抑揚、節の付け方、演劇形態の種類、衣装やメイクアップ、主人公や従者の特徴、ヒロインや遊女について述べている。音楽理論、ラサの理論について語られる演劇百科。

世阿弥の『花伝書』のように秘蔵されていたのを、フリッツ・エドワード・ホールが探し出して、1865年にその内の4章を出版した。それまでほとんど誰も見ることがなかった。

アビナヤ

アビナヤは、広い意味の演技全般。手足を使った仕草を意味するアンギカ、情緒、心持ちを意味するサートヴィカ、セリフ、言葉で伝えるヴァーチカ、衣装、出で立ちを意味するアーハーリヤという4つの区分がある。

インド舞踊を見れば分かるように、ハスタ・ムドラーと呼ばれる、手によるしるし、印相、印契が極端に発達している。これは密教時代になって急速に発達した。

仏典では6世紀に漢訳された『牟梨曼陀羅呪経』に、初めて密教の手印が17種説かれている。7世紀に訳された『陀羅尼集経』には300以上の手印が表れるので、宗教儀礼で用いられる印は6世紀に発達したことが分かる。

インド舞踊でのハスタ・ムドラーの発達とどちらが先とは決しがたい。というか、わたしは密教化された寺院にもデーヴァダーシー、あるいはガニカーが出入りしていて、舞踊が行われたと考える。それが金剛界曼荼羅の八供養菩薩の中に反映され、金剛歌、金剛舞、金剛香、金剛華、金剛燈などと供養物が尊格化されて描かれる。

ただし、金剛界も胎蔵界もインドにおいて曼荼羅図は残っていない。地面の上に砂絵のように描いて、儀礼が終わると消したのだろう。お招きした神仏は本地にお帰り願わないと具合が悪い。

ラサ(rasa)とバーヴァ(bhava

ラサとは味、精髄という意味。演劇上の美的な喜びのこと。4、5世紀の大詩人カーリダーサは8種のラサを知る。『ナーティヤ・シャーストラ』においても8種であったのが、後に改変、追加されて9つ(ナヴァ)のラサとして、今日、知られる。

インド舞踊を習うとき、ナヴァ・ラサというと師匠が作った顔の真似をすることだと思っているかもしれないが、そうではない。インド人とは目の大きさだけでなく、骨格や筋肉の付き方が違う。手足が長く関節が柔らかい。インド人が踊るとき、手がヒラヒラと舞うのだが、日本人には真似できない。インド武術のカラリパヤットの表演でも足がしなっている。

アビナヤは、本来、顔真似ではなくてその感情の起こるところ、発するところを取り入れる。例えば、憤怒だったら犬や猫を観察するのだ。猫の顔になることはできないだろう。後述の108カラナにも動物の動きにヒントを得たものがある。

外界の刺激を脳が受けて全身で反応するのを観察して心身に受けとめる。アビナヤにおいては自然な動物や子どもの心持ちを学ぶべきだ。風が吹いて木の葉が揺れ、小川のせせらぎ、雷や嵐、カラスと猫のけんかなど、天然自然を心に取り込んで、それを表出する感応力を養う。気を発する。

バラタはラサとしてシュリンガーラ(恋)、ハースヤ(滑稽)、カルナ(悲)、ラウドラ(憤怒)、ヴィーラ(勇猛)、バヤーナカ(恐怖)、ビーバッツァ(嫌悪)、アドブタ(驚異)の8つを取り上げる。

ラサを味わうと心に眠っている基本的な感情が呼び起こされる。8ラサはラティ(恋情)、ハーサ(笑い)、ショーカ(悲しみ)、クローダ(怒り)、ウトサーハ(気力)、バヤ(恐れ)、ジュグプサー(嫌悪感)、ヴィスマヤ(驚き)というスターイ・バーヴァ(基本的感情)に対応する。

演劇上の表現を受けて、聴衆が作中人物の心的状況を追体験する、感応する。それによって心に残る印象のことをバーヴァと呼ぶ。

アドブタは宝くじに当たってびっくりしてというようなことではなく、超自然的なこと、神威に接して生じる身体に起こる変化である。

金剛頂経系の密教を中国にもたらした不空の『十八会指帰』には、九味としてシャーンタ・ラサ(寂静)が数え上げられているので、8世紀にはナヴァ・ラサが唱えられた。10世紀にアビナヴァグプタがタントラのラサ論を詳述する。すべての苦悩が消滅した状態がシャーンタ・ラサである。

教習課程の成立

バーラサラスヴァティーはアビナヤが素晴らしいと賞賛される。しかし、デーヴァダーシー系の踊り子は、今日習うようなナヴァ・ラサの練習はしなかったのではないかと思う。

おそらく、『ナーティヤ・シャーストラ』に近い伝統を持つクーリヤーッタムからカタカリの教習に取り入れられたのだろう。インド舞踊初期の大家は、ほとんど皆、カタカリを習っているので、教育課程に取り入れたものと思われる。複雑なハスタ・ムドラーもそうだろう。

物語を語るのには必要だが、仕草の範囲の舞踊には印契は必要ない。カタカリの語はカターが物語、カリは遊戯。昔はインド四大舞踊といわれたが、カタカリのみが物語を語る演劇である。カラークシェートラは舞踊劇を上演するためカタカリに学んで取り入れた。

それぞれの師(グル)の家(クラ)で秘伝的に教えるグルクラ・システムから、それらの技術を総合した教習システムを築いたのがインド舞踊の殿堂カラークシェートラである。

108カラナ

『ナーティヤ・シャーストラ』第4章に記述される108カラナについては以前も触れたことがある。きわめて優れた舞踊家のパドマー・スブラマニヤムが研究の先鞭を付けた。近年、その研究がちょっとした流行で、YouTubeに映像がいくつか上がっている。

それはちょっと無理だろうという中国雑伎団的なポーズがいくつかあるが、ジャータカ物語に描かれるように、最初期の演技集団はアクロバットが中心と思われる。

河野亮仙の天竺舞技宇儀⑰

カラナkaranaという語は動詞「する」の√krから来ているので、動作、所作の意味である。インド舞踊の基本ポーズとされ、似たようなポーズがないわけではないが、今日のバラタナーティヤムなどの舞踊の体系では伝承されていない。

つまり、インド舞踊の伝統は『ナーティヤ・シャーストラ』からバラタナーティヤムに直線的に継承されていない。断絶があるということだ。その代わりに、バラタナーティヤムの基礎として最初に習得する基本動作は、アダヴadavuである。

ケーララ州にモーヒニーアーッタムという踊りがあるが、モーヒニーとは魅惑的な女、アーッタムが舞い、踊りである。aは長母音のアーで、tは反舌音の動詞atu、アートゥは動く、踊る、遊ぶという意味だ。アダヴもその関連語で、それをカラナの訳語としたのではないか。アダヴの語は同じケーララ州の武術カラリパヤットでも用いられる。

インド舞踊の聖地チダンバラム

舞踊祭が行われているチダンバラムの108カラナが最もよく知られているが、今日5つの寺院に彫刻が残っている。これについては、Bindu S.Shankarが2004年、オハイオ大学に338ページの博士論文を提出し、インターネット上に上がっている。

前回も紹介したように、バローダ大学で出版されたナーティヤ・シャーストラの校訂版(これには108カラナのイラストが挿入されている)やゴーシュによる英訳という、入手しにくい基本文献までインターネットからダウンロードできるので驚きである。ゴーシュの英訳は今では評価されず再検討されている。

ビンドゥの頭が下がるくらい熱心な調査によると、古い順に、タンジャブールのラージャラージャ寺院(985-1015)、クンバコーナムのサランガパーニ寺院(12-13世紀)、チダンバラムのナタラージャー寺院(12-16世紀)、ティルヴァナマライのアルナチャレーシュヴァラ寺院(16世紀)、ヴリッダチャラムのヴリッダギリシュヴァラ寺院(16-17世紀)である。

インドネシア中部ジャワにある、サンジャヤ王家の建設したプランバナンのシヴァ祀堂チャンディ・シヴァに108カラナが描かれているのをパドマー・スブラマニヤムが発見した。一部は損失している。

これについては、アレッサンドラ・アイヤーが1990年にロンドン大学で博士号を取得し、1998年にタイで出版している。プランバナンはボロブドゥールと同時期か、やや遅れて建設されたと考えられる。

8世紀末に着工して9世紀半ばに完成、856年竣工という説も唱えられている。とすると、ラージャラージャ寺院の108カラナより150年も早く作られたことになってしまう。

実は、ボロブドゥールの仏塔にしても、密教の金剛頂経系の思想に基づいて構想されているが、これもまたインドにはない前代未聞の大建築で、本家のインドを凌いでいる。

アイヤーは108カラナの彫刻はジャワで最初に作られて、それがインドに伝わったと考えている。インドネシアにナーティヤ・シャーストラのテキストは残っていない。翻訳もない。

学者が舞踊論を説いたということもありえるが、舞踊家が大勢やって来て、俺たちがいなくなって分からなくなるといけないから、彫刻で残そうということになったのではないかというのがわたしの解釈だ。

それから100年、200年経つと、インドでも同じように寺院の壁に残しておかないと伝統がなくなると危機感を抱いたのだろう。実際に、カラナは忘れ去られ、バラタナーティヤムの基礎はアダヴとなっている。

わたしは王宮セットと呼んでいるが、インド的な宮廷を築くに当たって、儀礼を司るバラモンや仏教僧、学者、様々なジャンルの工人、職人、武術家、マッサージ師、舞踊家、占星術師、医者、薬剤師、錬金術師、料理人が大挙してジャワに移住したと考えている。6世紀以降のことか。7世紀後半にシュリーヴィジャヤ(スマトラのジャンビか)を訪れた義浄は、インドと同じように仏教を勉強できるとして修学した。

イスラームの進出により危機感を抱き、ナーランダー僧院や東インドのパーラ朝に僧侶たちは結集した。密教はヒンドゥのシヴァ派と結びつくようになる。ジャワ、バリにおいても然り。9世紀頃から仏教寺院の破壊が進んだので、北東へ、南方へとヒンドゥ教徒、主としてシヴァ派も一緒に亡命したのだろう。立体曼荼羅の構想は東インドのパーラ朝に始まるのだろうが、ジャワにおいて顕著に認められる。

立体曼荼羅とも見られるボロブドゥールは、シャイレンドラ朝の王家が建造したが、シャイレンドラ朝もシュリーヴィジャヤにしても、インドネシアの歴史はインド以上によく分かっていない。古マタラームの系譜のシンドック王は929年、首都を中部ジャワから東ジャワに移す。火山の噴火があり、そしてイスラームの支配を避けて東漸し、ヒンドゥ文化はバリ島に残る。

プランバナンには中心のシヴァ祀堂の両隣りに、ブラフマー祀堂、ヴィシュヌ祀堂が建設された。この時期にはジャワで、おそらく宮廷や貴族の間だけではないかと思われるが、ラーマーヤナの物語が知られるようになっていた。シヴァ祀堂の壁面にはラーマーヤナの浮彫が50枚の場面で構成されている。

同じ頃、9世紀後半に、ラーマーヤナの物語はジャワの古語、サンスクリット語の影響の強いカウィ語に翻訳された。マハーバーラタのカウィ語への翻訳も11世紀になされ、907年頃の碑文には、ラーマーヤナ、マハーバーラタの朗唱やワヤンが行われたことが分かる。

ただし、ここでワヤンといっても今日のような影絵芝居、ワヤン・クリではなく、紙芝居的なワヤン・ベベルの形態と思われる。その構図が彫刻に移されたわけだ。ワヤンというのは、語り部のダランが仕切る芸能のことで、仮面劇や木偶人形劇などがある。

インドからラーマーヤナ、マハーバーラタの朗唱者がやって来て、その朗々とした詠唱をジャワ語で解説するという形が最初と思われる。サンスクリット語では分からないのでカウィ語に移し替えられた。あるいは、サンスクリット語の話者がいなくなったため、その語感や韻律、抑揚を残してカウィ語で唱えた。

そして、ワヤンなどの芸能によってインドの叙事詩も民衆に親しまれるようになる。語り物というのは、調子のよい韻文が唄われて、続いてそれを話し言葉で解説する。浪曲でもそうなっている。カタカリ舞踊劇でも、まず、歌で場面を提示して、それを具体的に身振り、仕草で物語るという形になっている。

お経というのも、本来、暗記物であり、サンスクリット語やパーリ語で朗唱された後に、現地語で解説して理解を深めたのだろう。それがお説教の型になっていて、次第に講談や落語などに芸能化する。

ラーマーヤナはヒンドゥ教徒のお経だ。オリッシー・ダンサーのクンクマ・ラールは、毎朝、お勤めのように古いヒンディー語のラーマーヤナ、『ラーム・チャリト・マーナス』を唱えている。それがラーム・リーラーという芸能化したお祭りとして構成される。宗教というのは学問ではなくて、芸能を通じて民衆の胸にすとんと入る。

参考文献

肥塚隆編『東南アジア/アジア仏教美術論集』中央公論美術出版、2019年

イラストはG. H. Bhatt, “Natyashastra”, Gaekwad’s Oriental Series, University of Baroda, 1956に拠る。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論

 

更新日:2025.02.12