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サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑱ | つながる!インディア

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑱

学校生活(4 
 
子供の頃から、絵を描くのはけっこう上手だった。そのため、入学して間もないうちに、ぼくは、絵の先生アシュ・バブーのお気に入りの生徒になった。東ベンガル出身のアシュ・バブーが、「ショットズィトは、名前もショットズィトなら仕事もショットズィトだ」(1) と言うのを、何度も耳にした。でも、「仕事もショットズィトだ」という言葉で彼が何を意味していたのか、ぼくにはわからなかった。痩せぎすの弱々しい人で、角ばった鼻、薄い口髭、手の指は細長く、禿げ頭の後ろの方は油でテカテカした長髪。公立美術学校(2) で絵画を学んだのだが、英語はまったくダメだった。生徒たちは皆、それを知っていたので、クラスに通達が来る度に、声を合わせて叫ぶ、–– 「先生、通達です!」 アシュ・バブーは、門衛が入ってくるのを見るや、何か一つやることを選んでそれにすっかり没頭しながらこう言う、「ディリプ、通達をちょっと、読んでくれないかな!」 ディリプは学級委員だ。彼が通達を読み上げて、アシュ・バブーの問題を解決する。ある日、ぼくの絵の一つに、アシュ・バブーは「10 + F」と点数をつけた。皆が覗き込み、点数表を見て訊いた、「+ F って何ですか、先生?」 アシュ・バブーは真面目くさった顔で答える、「F はな、一番(First)の意味だ。」 
 年に一度の表彰式のしばらく前から、アシュ・バブーは忙しくなった。彼には大ホールの飾りつけが任されている。生徒たちが描いた絵の展示もあって、その責任者も彼だ。賞状授与の前のいろいろな演目の中に、とっておきのものが一つあるが、それにもアシュ・バブーは貢献している。その演目は、「音楽に合わせた描画(Music Drawing)」という名前だ。たぶんこれは、学校の創立の時から続いていたのだろう。舞台の上には、黒板とカラーのチョークが置かれている。生徒の一人が歌を一つ歌い、もう一人の生徒がその歌詞に合わせて黒板の上に絵を描く。ぼくの在学中、毎回同じ歌が繰り返された –– タゴールの歌だ: 
 
汚れなき 真白き帆 甘き風を 緩やかに浴びて 

進みゆく舟 その麗しさ —— かつて見しこと 無きが如くに。 
 
最後の2年を除き、毎回同じアーティストが絵を描いた –– ぼくらより3学年上級の、ホリポド・ダーだ。このことはぜひ言っておかなければならないが、ホリポド・ダーは、手先の器用さと図太い神経、この二つを、完全に自分のものにしていた。大ホールを埋めつくす観衆の前で、上がることもなく、黒板の上に淡々と絵を描き続けるのは容易なことではない。でもホリポド・ダーは、毎回その試練を見事に切り抜けた。1933年に大学入学資格試験に合格して、彼は卒業した。その後、その代わりを務めるのは、いったい誰か? アシュ・バブーの願いはぼくだったが、ぼくはその願いを、どうあっても受けつけなかった。その理由は単純だった –– ぼくほど舞台を怖がる人間は、滅多にいなかったから。何かの科目で受賞すると聞いただけで、ぼくは高熱にうなされる。こんなにたくさんの観衆の面前で、ぼくの名前が呼ばれ、席を立って舞台に上り、どこかの偉い人の手から賞を受け取り、その後また歩いて、自分の席に戻る –– これはぼくにとって、怖るべきことだった。というわけで、「音楽に合わせた描画」の役は、結局、シュロンジョンが果たすことになった。絵は前年と同じだ –– 川には白い帆を広げた舟、空にはいくつもの白雲の塊、太陽は雲間を縫って、向こう岸の木叢の蔭に沈もうとしている –– でも、彼の絵に、ホリポド・ダーの絵の持つ統一感と迫力はなかった。 
 
ぼくが学校にいた最後の3年間、催し物のリストから決して除かれることのない、二つの演目があった。一つはフルのタブラー演奏、もう一つはジョヨントの奇術ショー。フルは、ぼくらより3学年ほど下のクラスにいた。7歳の時からタブラーを叩いた。後でもう少し成長してから、コンサートでも演奏するようになった。ジョヨントはぼくらの2年上のクラスだったけれど、2度立て続けに落第してぼくらのクラスに入ってきた。彼がぼくらのクラスで試験を受けている時、彼がとうてい合格しないだろうことがわかった。彼が試験用紙の方を見ず何度も自分の膝に目を落としているのに、ぼくらも気づいた。膝の上に開いた本でもあるのだろうか? 試験監督の先生がこの様子を見て、急いでジョヨントの方に近づいた。 –– 「下に、何が見えるんだ?」 ジョヨントは手を上げて、掌の上に丸ごと載っている一本のマルタバン・バナナ(3) を見せて言った、「昼食の時食べるんです、先生。それで、ちゃんとあるかどうか、見ていたんです。」 
 

 

ジョヨントは、1011歳の頃から奇術の練習をしていた。舞台で見せる奇術の他にも、いろいろなトリックを知っていた。ぼくらのクラスに来て数日の間に、ポリモルが、教室にすわったまま気を失った。何が起きたのか? –– ジョヨントが数分間、ポリモルの喉の両側の血管を押さえてすわっていた。これが起きたのはそのせいだ。ジョヨントが説明するには、この二つの血管は頸動脈と言って、それを押さえていると脳へ行く血流が少なくなり、人間を失神させることになる。でも、頸動脈から手を放しさえすれば、数秒後にまた血が流れ始め、意識が戻る。 
 
手品にかけては、ジョヨントはプロ級だった。でも、彼の本当の実力を知ることになったのは、同級生オシトの誕生日に招かれた時だった。オシトは、奇術を見せてもらうためにジョヨントを呼んだのだ。奇術は、食後のはずだったが、ジョヨントは、食事の最中に、ガラスのコップを手にして水を飲んだかと思うと、突然そのコップをガリガリ咀嚼しながら食べ始めたのだ。ガラスを食べ、釘を食べる –– こうしたことを、彼は在学中に身につけた。卒業後2, 3年のうちに、硫酸を飲む奇術を見せようとして、死んだと聞いた。 
 
同級生の中で、オニルについては、別に語る必要がある。なぜなら、彼にはちょっとした特色があったから。オニルは、まだ幼い時に、難病の治療のため、かなりの年月、スイスで暮らしていた。病気が治って帰国し、1933年にぼくらのクラスに入ってきた。その時ぼくは8年生だった。ションジョエがタゴール家と親戚関係にあったように、オニルも、祖先の中に、ある高名なベンガル人がいた。一度、デイヴィド・ヘア・トレーニングカレッジでBT(教育学士)のコースにいたある学生(4) が、ぼくらの授業を受け持ってローマ史を教えている時、エトルリアの王様ラルス・ポルセナ(5) の名前を出したことがある。それを聞くや、フォルルクがすまし顔で声を上げ、「何ですって、先生? ロード・シンハ、ですって?」 オニルの席は、そのすぐ後ろだった。彼はフォルルクの頭に、拳骨を一発、見舞った。その理由は他でもない –– ショッテンドロプロションノ・シンホ侯(6) が、オニルの母方の祖父だったからだ。オニル自身は、とても賢い生徒だった。長いこと外国にいたせいで、ベンガル語は出来が悪かったが、英語と算数の成績は、それを補って余りあった。金持ちの家の一人息子だったため、オニルの手に入るものはぼくらの想像を超えていた。ネッスル・カンパニーがその頃、1アナ(7) のチョコレートの包み紙に、ある種の絵を印刷し始めた。それらの絵は「世界の驚異」というシリーズに属していた。ネッスルは、空(から)のアルバムも用意して、その上にこれらの絵が貼り付けられるようにしていた。ぼくら生徒の間で、競争が始まった –– 誰のアルバムが、最初にいっぱいになるか。問題は、チョコレートを買う度に新しい絵が手に入るという保証がなかったことだ。オニルは金があったので、百個のチョコレートを一度に買って、一日でアルバムをほとんど埋めつくした。誰がいったい、彼に太刀打ちできよう? もっとも彼は、二つ以上重なった絵があると、それを他の生徒たちに気前よく分け与えたのだが、自分で買って集める楽しさを、それで、得ることができようか? 
 
ぼくらは、デスクの真ん中に置かれた青いインク壺の中の赤インクに替えペン先を浸して書くのに、オニルは、パーカー万年筆で書く。ぼくらは、5ルピーの箱型カメラで写真を撮るのに、オニルは、ある日突然、500ルピーのドイツ製ライカ・カメラを持ってくる –– 「カルカッタ・サウスクラブ・テニストーナメント」(8) の、拡大写真のおまけ付きだ。カルカッタで最初にヨーヨーが売り出された時、オニルはそれを、一度に8個あまり買って、学校に持ってきた。もっともその後、生徒の多くが、この面白いおもちゃを買うことになったのだが。またある日、彼はローラースケートを買って、学校に持ってきた。そして、昼休みの鉦が鳴るとすぐに教室の外に出て、車輪のついた靴を履き、ベランダのあちらの隅からこちらの隅へ、ガラガラ音を立てて走り続けた。 
 

 
訳注 
(注1)レイの名前、「ショットジト(Satyajit)」は、 「真理によって征服する者」の意。アシュ・バブーは東ベンガル出身なので jizi と発音する。 

(注2)「公立美術学校」は、カルカッタの中央、インド博物館の横に位置する、インドで最も古い美術学校の一つ。1864年設立。ベンガルの近代美術の発展に貢献した。タゴールの従弟甥で著名な画家、オボニンドロナト(Abanindranath Tagore)が1905年から1915年まで副学長を務めた 

(注3)ビルマ(ミャンマー)のマルタバン島から輸入されたバナナ。 

(注4)『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照 

(注5)紀元前510年前後に在位。ローマ帝国と戦ったことで知られる。Lars Porsena のベンガル語の発音「ラルス・ポルシナ」は、Lord Sinha の発音「ロード・シンハ」にやや近い。 

(注6Lord Satyendra Prasanna Sinha (18631928) 著名な法律家・政治家。インド人で最初のオリッサ・ビハール州知事、ベンガル司法裁判所法務官、インド総督行政委員会のメンバー。男爵の称号を持つ。インド人で初めて、インド担当副大臣として、イギリス政府の内閣府のメンバーとなった。インド国民会議派の総裁も務めた。 

(注71アナは4分の1ルピー。 

(注8Calcutta South Club 南カルカッタに1920年に設立された、芝生テニスを主体とするテニスクラブ。ボバニプル地区のウッドバーン・ロードにある。多くの優れたインド人テニス選手を育てた。 

 

大西 正幸(おおにし まさゆき) 

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。 

ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。 

 

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com// 

更新日:2024.06.11