アクティブ・ラーニングin 天竺 ~息子と共にインドを歩く~/藤倉健雄

日印交流・再発見 その3 :

アクティブ・ラーニングin 天竺 ~息子と共にインドを歩く~

藤倉健雄(カンジヤマ・マイム主宰)

 私の「終活」の始まり?!とも言える4年前の天竺の旅のお話をさせて頂きます。2014年の2月の10日間、当時8歳の息子とインドを旅しました。「終活」という言葉は最近の流行ですが、言い方を換えれば、「生涯に必ず成し遂げたい夢の遂行」と言う方が適当かもしれません。「あなたがあと一週間しか生きられないとしたら、何をしますか?」という質問があります。私は今までこの質問を何度も自分に問いかけてきました。出た答えが二つ。一つは「インドで息子に自分の辿ってきた生き方を伝えながら人生を語りあう」。そしてもう一つが「家族全員でお洒落な正装して本場ブロードウェイでミュージカルを鑑賞し、その後お洒落なカフェでそれを肴に人生を皆で語り合う」。

 後者の為には、二人のまだ幼い子ども達が英語を理解できねばならない為、もう少し時間がかかる。そこで前者の、「息子に自分の生き方を伝える」というのがこの旅の目的でした。10日間インドの仏跡を訪ね、息子と共に釈尊の足跡を辿って話しをしようと思いました。実はかなり迷いました。まだ8歳と言う事で時期尚早ではないか、あるいは多忙な自分が果たして10日間も休みを取れるのか。熟考を重ねた結果、出した答えは、「人生何が起こるか分からない、やれるときにやろう!と言う事でした。

 実はこの計画は、それより4~5年前から徐々に進行しておりました。息子には保育園時代から遊びながら「方丈記」「平家物語」、そして「般若心経」などを暗唱させてきました。保育園の行き帰りや入浴時に遊びながら繰り返していたら、子どもは簡単に音で覚えてしまうのです。そして折に触れて徐々に仏教の話をするようになりました。

 ここまで書くと、読者の皆様は、私が寺の出身とお考えになるかと思いますが、違います。寺出身でない私自身が、なぜ仏教なのかというと、主に三つの出会いからです。一つは小学生の頃に観た映画「西遊記」。傲慢な孫悟空がキントン雲に乗って宇宙の果てまで飛んでいき、その果てにある大きな柱に記念におしっこをします。ところがそれがお釈迦様の大きな掌の中であったという壮大なスケールの描写に、子どもながらに度肝を抜かれた覚えがあります。それは衝撃的なイメージでした。同時に、命がけで三蔵法師がたどり着こうとする天竺って何があるのだろうかとずっと気になりました。

 二つ目は高校生の頃に聞いた戦後の賠償問題の話。他の国々が戦後日本に賠償請求をした時に、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として会議に出席していたジャヤワルダナ蔵相(後、第二代スリランカ大統領)が釈尊の言葉を引用し、日本に対して一切賠償を請求しなかった事。その言葉は「憎しみは憎しみによって癒えることはなく、愛のみによって癒される」(法句経)でした。(注1)この話を聞いたとき、高校生ながら私は初めてあの釈迦の大きな手の意味や、三蔵法師が命がけで天竺へ行こうとした理由が何となく分かったような気がしたのです。このセイロンの決断が高校生の自分に多大な衝撃を与えました。こんな凄い事を教えてくれる、釈尊とは一体どんな人なのだろうと思いました。本屋に出向き、般若心経の本を買いあさり、暗唱し、毎晩仏壇に向かい唱え続けました。因みにその本の著者のお一人であった松原泰道先生と後に長野、善光寺の改修工事完成記念の大きなイベントでお仕事をご一緒できるとは、その時全く予想もできませんでした。

 そして三つ目の縁となったのが大学生の時にみた映画「天平の甍」。鑑真和尚が何度も失敗を乗り越えて、命がけで日本に伝えようとしたものは何か?これも衝撃的でした。この仏教の戒ってなんだろう?と

 その後、何年も経ってから、私はようやく念願の聖地を訪ね歩きました。ぜひ仏教の戒名なるものを死後ではなく、生きている時に在家の五戒と共に頂けないかという目的で1989年にブッダガヤを訪れました。東京目黒にある仏教興隆協会のご紹介を頂き、スリランカのマハーボーディソサエティのパンニャラーマ様にブッダガヤの菩提樹の下で受戒させて頂きました。(この時はまだ金剛宝座は一般に開放されており、宝座にも菩提樹にも直接触れる事ができました)

 その次にインドを訪れたのは、その2年後。自分が唯識に興味を持ち、ヨーガとは何だろうと探っていた時に、当時のボンベイ郊外のロナワラにある、カイバリアダーマンというインド政府公認のヨーガ大学にヨーガのteacher’s training certificate programなるものを受講しに訪れた時でした。

 このように身体全体を使いながら五感で学ぶと何かが見えてくる-これが自分の一貫した学びへの基本姿勢でした。やがてこれらの手法を私は米国ウィスコンシン大学院博士課程で正式に学問として学んだものが、私が現在大学で講義中の「教育演劇学」なるものです。そしてこれら一連の自分の試行錯誤しながら歩んだ道をインドで息子に是非とも話しておきたかった。同時に、仏教という大いなる教えをこの実践的手法で息子に現地で感じてほしいと思いました。以下息子との旅を当時の日記よりいくつか抜粋引用します。

2004年2月1日深夜。デリー空港に到着。2日デリー市内のホテル。さっそく朝食後の時間を利用してホテルの外に出て少々散歩。路上に寝る人々。小さい子をたくさん抱えてゴミと一緒に寝転ぶ家族を初めて見て、息子の顔がこわばった。こんな凄い現実を実際に目の前で見るのはおそらく生まれて初めてなのだろう。路上生活者たちを驚愕の眼で見つめる我が息子。「頑張れ、その混乱を味わえ!世の中は矛盾に満ちている。やがてお前もその矛盾の真っただ中に立たされ悩むことになるよ。その時の為にも今からこの現実を目に焼き付けて、そして感謝の気持ちと弱者への愛を育んでほしい。」

2014年2月、8歳の息子と、ブッダガヤの大菩提寺内にある菩提樹の前にて。この菩提樹の下でブッダが瞑想に入り、大いなる悟りを得たとされています。この菩提樹の下の仏陀が座していたとされる場所に金剛座があります。ここから仏教が始まりました。

午前中ガンディー記念館を訪れた。アヒンサー、非暴力でインドをイギリスから独立させたスーパーマン。この男の武器は自らの自分への厳しさだった。ドーティーという白い布を一枚纏い、粗食のみを口にするという質素さを絵にかいたような生活。自らが率先してイギリスの衣料品を拒否し、自分の衣を紡ぎ、そして自らイギリスの税に反対し、インド独自の海から自分の塩をもとめて海岸を歩き回った。途中何度も投獄され、そして妻は投獄中に亡くなる。なんという生き様。最後に記念館で目にしたものは独立後、銃弾に倒れたガンディーがその時身にまっとっていたドーティー。血痕そのままでしかもその時の銃弾も展示してあった。そしてその上には英語で「私の生き方そのものが私のメッセージである」とかかれていた。まさに言動双方にわたりメッセージを送り続けた現代の聖者だ。息子がそんなガンディーのドーティーを見ながら、彼を投獄し、苦しめたイギリスをボロクソに罵りながら正義の怒りをぶちまけていた。「うんうん、状況は理解できているな。と思いながら、ただし、その怒りを暴力で訴えたらどうなるかという話を仏教に絡めて懇々と話し続けた。果たしてどこまでわかってくれただろうか。だがいい。ガンディーが自分にできない凄い事したのだとわかってくれたなら、今の段階では十分だ。

こんな風に息子とのインド巡礼の旅が幕を開けた

竹林精舎を訪れる。選挙期間中であったようで、街中で街宣車がガーガーと音を立てて様々な音楽や演説を流していた。とある音楽が街宣車から聞こえてくると、息子が「あっパパ、これ、インドの国歌だよ!!」 周りの日本人の大人たちは、「・・・?」私も含めてまったく何が起こっているのかわからなかった。実は半年くらい前、息子にハイテク地球儀なるものを買って与えたのだが、(タッチペンで国に触れるとその国の国歌や情報を喋ってくれるというもの)息子はすっかり遊びながら色々な国々の国歌を覚えていたようで、そのインドの国歌が流れたのを認識できたのだ。子どもは本当に凄い可能性を秘めている!

霊鷲山。竹林精舎とならんで、ここはお釈迦様がずっと説法をなさった場所。法華経はじめ無量寿経、観無量寿経、大無量寿経、般若経などの舞台。雨安居の時期、普段は旅をしているお釈迦様が一か所に定住され教えを説かれ、それらが現在経典となって残っている。息子に説明する。必ず経の多くは「私はかくのごとく聞きました。ある時、お釈迦様は王舎城という国にある耆闍崛山(ぎしゃくつせん)にいらっしゃいました・・・」という表現で始まる。つまり、息子よ!ここがその舞台なのだ!途中、舎利弗や目蓮といった有名なお弟子たちの瞑想した洞窟を見ながら霊鷲山の頂へ。沢山の仏教徒が香を上げ、そして花を添えていた。ここはまた「大般涅槃経」(岩波文庫では「ブッダ最後の旅」)の旅の出発地になったところでもある事を息子に告げる。ここから釈尊は旅を始め、やがてクシナガラで涅槃に入られたのだ。お経の世界がまさに展開した神聖な場所!!こんな所に息子と来られるなんて凄い。息子にこの感動をかみ砕いて話しをする。霊鷲山の山頂にて一緒に般若心経を唱えた。

参拝後、息子はどうしても乗ってきたリフトに乗って帰るというので、仕方なく、 添乗員のHさんと共にまたまた坂を駆け上がり、頂上からリフトでバスに戻る。子どもだもん、こういう無邪気さも必要なのだ!(笑)

(中略) さてさて、午後はナーランダ大学跡。ナーランダは、5世紀から12世 紀あたりまで仏教教学の最高峰として栄えた処で、最盛期には学生が1万人以上、そして指導者が数千人に達するという巨大な大学だったという。7世紀前半にはかの玄奘三蔵が学び、その様子が「大唐西域記」」に記されている。主に唯識学が教えられていたようで、特に玄奘三蔵の時代はその唯識学派の名手、シーラバドラが学長をしていており、玄奘はこの師について631年から636年まで(29歳から34歳まで)5年間、瑜伽論や中論などを学び、後には学長代理までになったといわれている。お香をあげ、読経し、当時の大学に思いを馳せる。幸せな気分、ついにあの三蔵法師のいらした大学にたどり着いた!息子よ!ここだぜ、ここ!西遊記の到着地点だぜ!と2人で色々三蔵法師の勉強する姿を想像しながら興奮していた。

その後長い時間バスに揺られ、いよいよ仏教の最大の聖地ブッダガヤへ! 途中、息子に様々な仏教説話をかみ砕いて話をした。アングリマーラの話、キサーゴータミーの話などなど。うんうんと頷いていた息子だが、暫くすると、窓外に見えるバイクの5~6人乗りに大はしゃぎ!息子の笑い声がバス中に響き渡っていた

ブッダガヤのホテルに着き、夕食を食べ、すぐに息子と二人で菩提樹のあるマハーボーディ寺院へ向かった。といっても夜になり、この時間リキシャーを捕まえるのがかなり難しかった。するとホテルの土産屋のオジサンが息子に「バイクに乗りたいか?」と聞いてくれた。息子はもちろん「うん!」そこでインドお約束?!の三人乗りで一路寺院へ!!最初はビビっていた息子はしばらくすると大喜びの大はしゃぎ!!(息子よ、日本では絶対にやるなよ!笑)。

人生の夢であった、菩提樹の下での息子との参拝。家でずっと教えていたパーリ語の三帰依と五戒を一緒に唱え、そしてしばらく夜の菩提樹の前に二人で腰かけ、いろいろな話をした。人生の最高の時間を味わう。ここがどんなに仏教徒にとり神聖な場所であるのか、そしてここを一生のうちに訪れる事ができる限られた人の幸せ。ましてや大好きな「お前(つまり息子)」と来られたというこの奇跡的な事!これがどんなに自分にとってこの上ない幸せであるかを話しつづけた。息子が私のもとに生まれてきた事を改めて感謝し、「ありがとう」を息子に連発!最初はその仏跡の神聖な雰囲気に緊張した息子だったが、本人なりにその聖地のエネルギーを全身で味わっていたようだ。長い間二人で色々話し合う。まさに人生のクリスタルモメント(宝物のような瞬間)!

帰り道、サイクルリキシャーのスリルにまたまた大はしゃぎ。こんな可愛い息子とこんな素敵なところに来られた事に心から感謝。もう明日死んでも悔いはないかも!! 合掌

 以上日記より抜粋しましたが、こんな感じで10日間が過ぎてゆきました。この後もバラナシにて「死を待つ人の家」を訪ねたり、或いはハンセン氏病の路上生活者にお布施を乞われて囲まれたり、息子はかなりのインパクトを受けていたようでした。勿論、難解な思想こそ無理だったかもしれません。しかし、自分が面白い、素晴らしいと魅力を感じた事、或いは不思議だと思った事は現地を訪れて徹底的に調べてみる。頭だけではなく、身体全身で物事を感じてみることの大切さ、それを謙虚に追及するという姿勢だけでも息子に伝えられたかなと思っております。息子がやがて成長し、彼の一生涯の何かの折にちょっぴりでもこの10日間の事を思い出して役に立ててくれたら幸せです。

2018年2月に再び訪れたインド。祇園精舎にて、12歳になった息子と

あとがき

 この時、ブッダガヤにて記念に一緒に購入した菩提樹の実の腕輪を息子は今でも肌身離さずにつけていてくれます。そして今年、2018年2月、小学校を卒業間近の息子と再びこの地を訪れるチャンスが巡ってきました。息子の希望もあり、再びブッダガヤを訪ね、二人でまたもや聖なる菩提樹の下で長い時間語りあい、そして一緒に瞑想をしました。前回行けなかった、念願の祇園精舎やクシナガラも訪れる事ができました。息子は暗誦してきた平家物語の「祇園精舎」や「沙羅双樹」の実物を見られてご満悦!こんな瞬間がまた来るとは!再び幸せを命一杯満喫した旅でした。私の終活はまだまだ続けられそうです。もしかしたら、いつか息子に手を引かれて杖をついてくることになるかも知れません。

藤倉健雄

Ph.D 教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部、および上智大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク世話人、および幹事

注1:鎌倉の大仏で有名な高徳院には、中村元博士が顕彰文を認められた顕彰碑が建てられており、そこには、次のように記されている。

ジャヤワルデネ前スリランカ大統領顕彰碑誌

 この石碑は、1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルデネ前大統領を称えて、心からなる感謝と報恩の意を表するために建てられたものです。

大統領(講和会議時は蔵相)はこの講和会議の演説にブッダの言葉を引用されました。

そのパーリ語原文に即した経典の完訳は次の通りであります。

『実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを以てしたならば、ついに恨みの息むことがない。恨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。』(「ダンマパダ5」)

ジャヤワルデネ前大統領は、講和会議出席各国代表に向かって日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時はセイロン)は賠償請求を放棄することを宣言されました。

 さらに、「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々が主張した日本分割案に真っ向から反対して、これを退けたのであります。

 今から40年前のことですが、当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。

 今、除幕式の行われるこの石碑は、21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る慈悲と共生の理想を示す碑でもあります。この原点から新しい平和な世界が生まれ出ることを確信します。

                1991年(平成3年)4月28日

ジャヤワルダネ前スリランカ大統領

顕彰碑建立推進委員会

東京大学名誉教授

                 東方学院院長    中村 元    謹誌

更新日:2018.07.12