ラージャスターン物語 2
悲劇のメーワール王家:ウダイプル
ラージャースターンの王家の中で、最も古く、自らを太陽神スーリヤの子孫と称していたメーワール王家。しかし、ムガル帝国との戦いの中で、犠牲が一番多かったのもこの王家であった。メーワール王家の起源は8世紀ころの王バッパー・ラーワルに遡るとされている。もともとの首都はチットールのチットールガル城だったが、1567年、ムガル帝国のアクバルに攻められ、激しい戦いの末、城は陥落した。のちに、メーワール王家は、ウダイ・スィンによってウダイプルに遷都した。
ラージプートの御三家、ジャイプルのアンベール王家,ジョードプルのマールワール王家に比べて、ウダイプルのメーワール王家は氏族間の対立もなく、王家の力が強く、西方から侵入した強大なイスラーム軍に最後まで戦った。もともとウダイプルに遷るまでの居城、チットールガルでのイスラーム軍との戦いは、インド史に残る壮絶なものであったと伝えられている。このムガル皇帝軍との壮絶な決戦は、多くの悲劇も生んだ。山城チットールガルの攻防戦の最後、いよいよ落城が避けられなくなったとき城内の女たちは、ムガル軍からの辱めを受けないように火の中に飛び込んで死んでいった。これをジャウハル(集団殉死)という。誇り高いラージプートたちの掟であった。そして男たちは激しく戦い戦死していったのだった。1568年の出来事である。都をウダイプルに移してからも、ムガル軍に何度も攻められたが、ジャイプルの王が仲介に入って、ようやくメーワール家のムガル軍との戦いはひとまず終わりをつげた。
しかし時は下って、ウダイプルに遷都したメーワール王家にさらなる悲劇が訪れた。時は19世紀、ウダイプルのメーワール王家にはインド中に知られた美しい姫君がいた。その姫君、クリシュナー・クマーリー王女が、ジャイプル王から求婚された。しかもジャイプル王の求婚は三千の兵を伴っての直接の求婚であった。日の出の勢いのジャイプル王の求婚を断るわけにいかない。断れば三千の兵を伴ったジャイプル軍との戦いが始まってしまう。実はこの姫の結婚話が、ジョードプルの王家と、内々に進んでいたのだった。王家の意地の張り合いに、姫は巻き込まれてしまった。もともと三つの王家の激しい勢力争いがその底流にあった。
進退に窮したウダイプルの王家の結論は、悲惨にも姫に死んでもらうことだった。死の執行は後宮の婦人たちにゆだねられた。いよいよとなったとき、気丈にも、悲嘆の限りにむせぶ母を優しく慰めてから、姫はしばし湖面を見つめ、自ら前に備えられた毒杯を仰いで死んだと伝えられている。武勇の民、ラージプートたちの悲しい物語だった。
文・写真:©松本 榮一(Eiichi Matsumoto)
写真家、著述家
日本大学芸術学部文芸学科を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。写真集『インド』全三巻を毎日コミュニケーションから刊行。のち、インド各地に散らばる亡命チベット人の難民村を取材する。1981年には初めてポタラ宮を撮影、写真集『西蔵』にまとめる。以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。
主な出版、写真集 は『祈りのブッダ』奈良康明文、松本榮一写真(NHK出版、1999年)
『インドおもしろ不思議図鑑』松本榮一、宮本久義編著(新潮社、1996年)
『死を待つ家』松本榮一著(メディアファクトリー、1999年)
『ガンガー 母なるインドの聖河』松本栄一写真集(丹陽/雄山閣、2002年)
『東北大学所蔵 河口慧海請来チベット資料図録』(佼成出版社編刊、1986年)
図録『甦るパリ万博と立体マンダラ展』(西武百貨店、1989年) 他
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更新日:2026.08.01