日本寺inブッダガヤ 今昔・あれこれ①

温故知新 日印文化交流の源へ

当サイトの「ギャラリー」でも取り上げていただいたビハール州ブッダガヤの「日本寺」。

仏教の最大の聖地に日本のお寺があるのをどれだけの方がご存知でしょうか?

今から45年前、日本の仏教界は宗派の垣根を超え、お釈迦様の悟りの地、仏教の原点であるビハール州ブッダガヤに日本寺を建立しました。
仏教界のみならず、政財界も諸手を挙げて一致協力し荘厳かつ純和風の本堂が建てられました。

正式名称は「印度山日本寺(いんどさん にっぽんじ)」と言います。

私がこのお寺の存在を知ったのは、ちょうど就職活動中に手にした沢木耕太郎氏の『深夜特急』の中での描写でした。若き日の沢木氏もユーラシア大陸横断の旅の途上、ここブッダガヤに立ち寄り、日本寺にも滞在しています。

「ブッダガヤは静かで穏やかな農村だった。私はカルカッタの興奮から醒め、のんびりと日本寺での居候生活を楽しんだ。」(※引用①)。ちなみに日本寺での居候の先輩として、「チベット人を撮りつづけているという若いカメラマンの夫婦」が登場しますが、当ネットワークにも参画されており「ギャラリー」コーナーを担当されている松本榮一氏であります。

「こんなところに、こんなお寺があるのか!」とワクワクしながら読み進めた、そのお寺に数年後に自分が駐在することになるとは想像もしていませんでした。
新卒採用していただいた会社を辞め、深川のお寺に弟子入りした、その師匠が日本寺運営に携わる役員の一人であったことから、駐在僧の一人として送り出してもらいました。

2006年5月に成田を発ち、2008年5月に帰国するまで約2年。ちょうどユネスコ世界遺産認定の前夜、いわば宗教の垣根を超えて「世界の中心」の一つとして認められる直前のまだまだ辺鄙で素朴さが残る雰囲気をたっぷりと味わわせて頂きました。

赴任前にも一人旅や師匠のお供で何度か訪れていたブッダガヤでしたが、いざ腰を据えて住むとなると物売りやリキシャ(自転車式人力車)の客引き攻撃にも平然と対応できるようになり、そうしたおじさんたちと顔なじみになるのが一種の喜びでもありました。「センセー、センセー」とどこで覚えたのか日本語で話しかけてきて、天気の良し悪しや観光客の多い少ないなど世間話を交わすのもまた楽しみになっている自分がいました。「インドは好き嫌いが極端に分かれる」とは昔から言われていることですが、こうしたやりとりに疲弊せずに付き合えるようになるかどうか、が鍵のような気がします。

奈良・薬師寺の建立した宝篋印塔を端緒に、東京・祐天寺の当時のご住職である巌谷勝雄上人や私の師匠の師匠である稲田稔界上人、そして各宗派のトップクラスの錚々たるメンバーが各界に働き掛けて勧進を進め、見事に建立された日本寺。今でも毎日時を告げ続けている鐘楼堂は松下幸之助氏が個人的に寄進して下さったといいます。

45年の歳月を経て、脈々と守り続けられている日本寺をぜひ訪れて頂き、仏教発祥の聖地にきちんと日本仏教の報恩感謝のシンボルが印されていることをご覧いただければと思うところであります。

この日本寺の落慶に際して寄せられた、当時の総理大臣田中角栄氏の文章をご紹介します。日本とインドの関係が端的に述べられています。
「(前略)申すまでもなく、仏教はインドから中国、朝鮮を経てわが国に渡来したものでありますが、爾来千数百年の間、仏教はわれわれ日本人の心を深く宿り、日本文化、国民精神形成の上に重大な役割りを果たして参りました。

この仏教の交流を機縁として始った日本とインドの関係は、現在では、経済、文化等あらゆる分野における友好的かつ緊密な関係となって見事に結実しております。

仏教は、また単に日印両国民共通の文化遺産であるばかりでなく、全人類共同の偉大な精神的文化遺産でもあり、今日このように国際的に仏教交流活動が盛んになることは誠に意義深いことと思います。(後略)」(※引用②)

【引用】
①沢木耕太郎『深夜特急(1~6)合本Kindle版』
②国際仏教興隆協会『印度山日本寺 落慶記念豪華写真集』

【写真】
1,日本寺本堂
2,日本寺ご本尊
3,日本寺境内(右から「宝篋印塔」「鐘楼堂」「納骨堂」)

 

渋谷 康悦 (しぶや こうえつ)

1975年新潟生まれ
会社員生活を経て、浄土宗 正覚院(江東区)で出家。
元・印度山日本寺(ブッダガヤ)駐在僧(2006~2008年)。
現在、浄土宗 大善寺(八王子)勤務。

更新日:2019.11.14